勢多郡上川淵村第71号天神山古墳 |
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| 勢多郡上川淵村第71号天神山古墳 現在の前橋市広瀬町にある(あった?)前方後円墳で、上毛古墳綜覧では長さ414尺(約125.4m)、幅234尺(約70.1m)、高さ30尺(約9.1m)とある
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| しかし何でここだけ残すかなぁ・・・と思う 遠目には高さのある方墳があるようにしか見えないのだけれど、後円部の主体部だけを残した結果、こうなったらしい 主体部の粘土槨部分の上に覆い屋根をかけたので、こんな外観になっているらしいのだが、はっきり言って面白くない
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| 墳頂の覆い屋根近影 この下に粘土槨のレプリカがあると聞いたのだが、ごらんの通りの状況で、まったく確認できなかった
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| 標柱が立っているから、かろうじて古墳だとは理解できるものの、いくら開発の結果とはいえこんなかたちで残されても・・・
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| 天神山古墳主体部の南西にある交差点 かつて墳丘はここの交差点の角、薬局のあたりから右端の車がすれ違っているあたりまであったという 実測図によれば、高崎市倉賀野町の浅間山古墳(4/15の記事参照)とは、前方部と後円部の比率などが同じ規格だったようで、ここからだとちょうどその記事の2枚目の画像と、見る角度が同じになる
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2008年5月25日(日)22:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理
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群馬郡岩鼻村第23号稲荷山古墳 |
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| 群馬郡岩鼻村第23号稲荷山古墳 現在の高崎市綿貫町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ72尺(約21.8m)、高さ8尺(約2.4m)とある
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| 綜覧では、発掘については「有」としか書かれておらず、出土品の記載もないが、高崎市史によれば横穴式石室があり、須恵器も出土したらしい だとすれば、この社殿の真下に石室の遺構が残っているのかも知れない
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| 反対側、つまり北側から見る この大きくうねった道がいい感じである もしかしたらこの道の部分に、周堀があったのかも知れない 有名な綿貫観音山古墳から北西に1.1kmしか離れておらず、何らかの関連性も推測できそうな気もするが・・・
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| 稲穂の海の向こうに浮かんだ墳丘
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2008年5月24日(土)22:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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佐波郡芝根村第3号梨ノ木山古墳・佐波郡芝根村第6号古墳 |
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| 佐波郡芝根村第3号梨ノ木山古墳 現在の佐波郡玉村町下茂木にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ120尺(約36.4m)、高さ32尺(約9.7m)とある、
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| 綜覧でも説明看板でも円墳とされているが、最近の発掘調査で前方後円墳と分かっている 明治16年に発掘された際、刀や曲玉が出土したとのこと ここも彦狭島王の陵墓という伝承があり、別名「皇院廻り古墳」とも呼ばれていたようだ
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| 墳丘を南側より見る こちらからだと、確かに前方部を失した前方後円墳に見える ここのすぐ北東には、綜覧佐波郡芝根村第2号オトカ塚古墳という前方後円墳があり、現在削平され宅地になっているが、宅地化前に行われた発掘調査の際の写真が玉村町歴史資料館に展示されている
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| 佐波郡芝根村第6号古墳 現在の佐波郡玉村町川井にある円墳で、綜覧では大きさ36尺(約10.9m)、高さ4尺(約1.2m)とある
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| 北東から見る 墳丘はコンクリで固められた墓地となっている 左側は、本古墳に隣接する東栄寺の本堂
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2008年5月23日(金)21:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理
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佐波郡玉村町第15号古墳 |
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| 佐波郡玉村町第15号 佐波郡玉村町角淵にあった円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ85尺(約25.8m)、高さ10尺(約3m)とある
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| 綜覧記載の大きさは誤記であったようで、説明看板によれば径12mとのこと この数字を尺貫法に直せばだいたい40尺となるのだが、どう誤記したら85尺になるのだろう 以前は玉村町中央公民館の敷地内に石室部分が移築復元されていたのだが、中央公民館の閉鎖に伴い、玉村町文化センターの敷地内に再度移築された
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| 石室部分を正面より見る 天井石は失われており、どのような石が使われていたのかも不明とのこと この削石の互目積を見ていると、勢多郡富士見村の横室古墳公園に移築された上庄司原2号古墳(綜覧勢多郡富士見村第9号古墳)の石室を思い出す
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| こちらから見ると、前庭部の石積みが厚いことが分かる ほとんどの古墳では、封土に埋まったり崩落したりと、なかなかはっきりとは見られない部分でもある
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| ここ文化センターに再移築された際に、墳丘を復元されているため、古墳とはっきり分かるようになった ちなみに文化センター2階には玉村町歴史資料館があり、玉村町小泉の小泉古墳群についての展示も見ることが出来る
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2008年5月22日(木)21:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理
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勢多郡富士見村第25号古墳 |
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| 勢多郡富士見村第25号古墳 勢多郡富士見村時沢にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ50尺(約15.2m)、高さは56尺(約16.9m)とある (この高さは明らかに誤記もしくは誤植である)
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| 北東より見る 墳丘の全体を見渡すことは事実上不可能 墳丘の北側には道路に面して塀が建ち、その道路の向かいにあるのが綜覧勢多郡富士見村26号古墳 この位置からの本古墳は、肉眼では見られるものの、写真に撮るのはなかなかにつらい
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| 個人宅の裏手にあり、南側から墳丘にたどり着けるものの、こちら側は墓地となっている 墳丘の南東には石段があり、墳丘上に登れる
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| 石室入口は未開口ながら、天井石は失われているため、まるで古代ローマの入浴施設のか何かの遺構のようにも見える 本古墳は群大の尾崎教授によって調査されており、所在地名(富士見村時沢字鎧塚)から鎧塚古墳と名付けられている その調査では、径18.5m、高さ3.1m、入口未開口のため石室全長は不明ながら、転びを持つ横穴式両袖型自然石乱積と判明 なお、玄室内の長さは3.4m、幅1.95mとのこと
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| 結局、綜覧勢多郡富士見村第26号古墳のある諏訪神社の境内から、雪の日に見るのが一番よく見えるというオチ 尾崎教授の著書によれば、このあたりは白川古墳群という名があり、昭和10年の一斉調査に漏れたもので痕跡の認められるものはすこぶる多いとのこと
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2008年5月21日(水)23:00 | トラックバック(0) | コメント(2) | 勢多郡富士見村 | 管理
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勢多郡富士見村第26号古墳 |
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| 勢多郡富士見村第26号 勢多郡富士見村時沢にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ40尺(約12.1m)、高さ10尺(約3m)とある
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| 例によって雪の日 墳丘のかたちがはっきり分かる
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| 北西側から見る 裏側から見るとしっかり残っているように見えるが・・・
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| 墳丘の南側は諏訪神社の社殿に食われてしまい、三日月型になってしまっている 富士見村時沢地区の赤城白川東岸に位置する古墳としては、本古墳と綜覧勢多郡富士見村第25号くらいしか残っていないようだ
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| 社殿裏、主体部にあたる部分 石室材と思われる石が数個露出している 綜覧にも「石槨現存」と記載されており、これらのことを指すものと思われる
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2008年5月20日(火)22:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 勢多郡富士見村 | 管理
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高崎市庚申古墳群 |
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| 高崎市庚申古墳群 高崎市金古町にある古墳群で、上毛古墳綜覧では群馬郡金古町第26号~第26号の31基が記録されている これは庚申b号。石室が開口しているとのことだが、草に埋もれたのか、確認できなかった 昭和38年に群大で調査され、葺石はあるものの埴輪は有さないことが判明している
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| 庚申e号 墳丘周辺に石が積まれているということは、石室部分は崩壊したあとということになる
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| 庚申g号 平成5年に群馬郡群馬町教育委員会が確認調査を実施、墳丘径は16mを超えるとのこと 南東方向に石室開口部と思われる石組みが確認されている
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| 古墳名不明ながらも、近くの群馬県稚蚕人工飼料センター建設前に行われた庚申遺跡の調査報告書できちんと古墳として分布図にプロットされている古墳 県立日本絹の里の東にある
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| 庚申e号の北約80mに転がる石 すぐ近所のお年寄りに聞き込みをしたら、そこらにいっぱいあった古墳をつぶしたときに出た石だとのこと 形状から見て石室側壁の石だろうか
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2008年5月19日(月)22:38 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理
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高崎市寺屋敷古墳群 |
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| 高崎市寺屋敷古墳群 高崎市足門町にある古墳群で、上毛古墳綜覧では群馬郡金古町第92号、第94号~第110号の18基が記録されているが、現存するものは3基のみとなっている
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| 説明看板によれば、これが寺屋敷d号ということだが、見学は容易ではあるものの、周囲を木に囲まれていて全体が見渡しづらい 当然、写真に撮るとこんな感じになってしまう
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| 脇に柵の切れ目があって、そこから入れば墳丘に登ることも出来る というか、そうしないと説明看板が読めないのだが、最近の高崎市はこうした説明看板をしっかりと作っているのが評価できる それに引き換え、我が前橋市は・・・
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| 寺屋敷f号 大きめの墳丘が目を惹くが、個人的には隣の民家の屋根が立派なのが気になるw
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| 寺屋敷g号 これだけはちょっと古墳と言われないと気付かないかもしれないレベル 墳丘が見づらいというのもあるが
ところでこの寺屋敷古墳群、現存する3基とも現在の地番が、綜覧記載当時のものではなくなっており特定は出来ない状態なのが残念である
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2008年5月18日(日)22:03 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理
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天良七堂遺跡その3 |
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| こちらは南側に位置する5号掘立柱建物跡 ほかの掘立柱建物跡と違い、建て替えのあとは確認できていないが、この先は奥に見える道路にかかっており、ここを掘ってみないことには全体像が掴めないとの話だった ちなみにブルーシートの部分は、見学用の通路である
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| 5号付近の掘立柱部分の断面 土の色の違いで、どこまで掘ってあったのかが分かる
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| 別の掘立柱跡 こちらには根石が残っていた
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| その別角度 跡の全体が暗かったため、日中シンクロでフラッシュを焚いてみた
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| 再び1号基壇建物跡に戻ってみる この新田郡庁跡は敷地の一辺が約90mで、この数字は国内最大規模だという 8月頃の官報告示で正式に国史跡となり、その後は建物の復元や展示を検討するとのことで、とても楽しみだ
なお、この後はここから1kmちょいと北北西に行ったところにある二ッ山古墳などを見学してから帰ったのは内緒w
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2008年5月17日(土)22:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 太田市 | 管理
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天良七堂遺跡その2 |
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| 北側にある6号掘立柱建物跡(白線)と7号掘立柱建物跡(青線) これまた、6号のあとに7号が建っており、位置と角度がずれている 7号の床面には川原石を使った石敷きがあったのだが・・・
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| その石敷きは建物から離れた場所でも出ている どうやら、郡庁内全体に石敷きがあったとも見られる
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| 6号と7号を合わせるとかなりの奥行きになり、画像でもこんな感じ
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| 左側は民家なのだが、柵の向こう側にも柱の跡が見える この柵の延長線上には3号基壇建物跡が確認され、また、ここ6号と、4号、5号の周辺で円面硯の破片が1点ずつの計3点 他に7世紀から8世紀にかけての土器の破片が出土している
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| 西側の1号掘立柱建物跡(白線)と2号掘立柱建物跡 見学者の集団の向こうには2号基壇建物跡が確認されている これらの建物は、長元3年(西暦1030年、後一条帝の時代)に書かれた「上野国交替実録帳」の記事と一致している 「東□屋壱宇 西長屋壱宇 南長屋壱宇 □□屋壱宇 公文屋壱宇 厨壱宇」 (□は判読不能部分)
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2008年5月17日(土)22:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 太田市 | 管理
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