厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 


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多胡村第122号・第123号

上毛古墳綜覧多野郡多胡村第122号
現在は多野郡吉井町神保古墳群に属している
ネットの古墳仲間のS氏にご案内いただいた、数十基のうちの1基
これは北東側から見たところ



南側から見たところ
墳丘の周囲は花に囲まれている



登れということですね
分かります



ということで遠慮なく登ってみたら、隣接する古墳がよく見えた
これは多胡村第123号、左奥には180号も見える



122号を南東側から見る
その手前にも古墳と思しき小山があるが、古墳名は分からなかった



2008年5月3日(土)22:25 | トラックバック(0) | コメント(2) | 多野郡吉井町 | 管理

ドイツ国防軍戦車兵

タミヤの1/16のキットを組んでみた


顔に色を塗ってみた


服に色を塗ってみた


あちこち細かく塗ってみた


台座もつけてみた

おしまい



2008年5月2日(金)19:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | 模型 | 管理

相馬ヶ原の74式その2

一方こちらは、その翌年の晩春に訪れたときのもの
まるで今にもエンジンがかかって動き出しそうなくらいにお色直しされている



やっぱり、何度見ても流麗なスタイルをしているなぁと思う


こっちから見ると、手前の石が邪魔なんだけどねw


でもまぁ、サイドビューはきれいに見ることが出来るし、まぁいいか


後ろ姿もこの通り、きれいになったのだ


2008年5月1日(木)20:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 自衛さん | 管理

相馬ヶ原の74式その1

2006年の晩夏、模型の資料を撮らせてもらおうと思い相馬ヶ原に出向いてみたら、何やら覆われてしまっているので、門衛の人に聞いてみたら


もう塗装がこんな状態なので、きれいに整備し直すのだと聞かされた


確かにこれじゃねぇ・・・
緑色は色あせが目立つし、茶色は紫外線焼けしてるし



でもまぁ、撮れるもんは撮ってきたりして


その頃作ってた74式のキットを、まったく同じアングルで撮ってみたことがある

しかしこの74式のキット、その後ほとんど進んでいなかったりする(ぉ



2008年5月1日(木)20:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | 自衛さん | 管理

大類村第10号・高崎市下滝町淵ノ上13所在古墳

高崎市中大類町の公民館敷地内にある古墳
上毛古墳綜覧群馬郡大類村第10号で、元島名将軍塚古墳の西北西約900mの地点、県道133号線の脇にある
一見ただの土盛りのようだが、明治20年に発掘され、勾玉と直刀が出土している



上毛古墳綜覧では墳形不詳規模不詳とあるが、現状約10mほどの長さがあり、高さは7、80cmほどだろうか
墳丘には土管の輪切りが何本も置かれ、手前にはブランコ。子供の遊び場になってしまっている



高崎市下滝町淵ノ上13所在古墳
綜覧記載漏れとなった古墳で、高崎市では所在の地番をそのまま古墳名として呼んでいるため、こんな古墳名となっている



元島名将軍塚古墳の南東約300m、高崎市歴史民俗資料館の裏手にあり、慈眼寺裏古墳群もすぐそこにあるというなかなかの好立地
道路を挟んですぐ北が中学校のため、見学・撮影時にちょっと気を使いそうな一基である



2008年4月30日(水)22:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

元島名将軍塚古墳

高崎市元島名将軍塚古墳
上毛古墳綜覧では群馬郡京ヶ島村第1号将軍塚と記載されているが、王山とも呼ばれていたようだ
記載当時は前方後円墳とされていたが、その後の発掘調査で前方後方墳と分かった



詳しいことは例によって看板で熟知(ry
群馬県立歴史博物館友の会が刊行した「古墳めぐりハンドブック」では全長91m、年代は4世紀中葉となっている



後方部を北より見る
元島名将軍塚古墳は前方部が南東側を向くようで、この向きは群馬の初期の古墳の特徴でもある



後方部の南側、案内看板の測量図でも書かれている崩れた部分が、しっかりと分かる
また、比高がかなり高く、存在感がある



どのくらい高いのか、手前のバイクと比較するとよく分かると思う
公園の滑り台などの遊具が置かれているが、藪に飲み込まれてしまっている



2008年4月30日(水)21:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

遠見山古墳

前橋市総社古墳群遠見山古墳
古墳名の由来は看板のとおりなんだけど
ということは、総社藩秋元家の家老だった先祖も、この古墳の上に立って遠くを見てみたことがあるはずだなぁ・・・
「群馬県の歴史散歩」(山川出版社刊)の記事では、全長70m、5世紀代の築造で竪穴式の主体部が予想されるとある



さて、後円部北面から墳丘に登ってみようとすると、途中で途切れまるで獣道のような感じになるので諦めるしかない
この篠藪自体はかなり昔からあるようで、昭和29年刊の「総社町史」でも「墳丘は畑、南面にしの茂る」と書かれている



墳丘全体を北北西部より遠望する
このあたりはかつての総社城の城郭内であり、おいらの立ち位置がほぼ中心部にあたる



前方部を真西より見る
周囲はすっかり耕作地となり、周堀の跡も分からない状態



そこから少し南側に行った地点から見る
こうしてみるとそこそこ大きめには見えるが・・・
左後方、残雪の武尊連峰。右後方は赤城山



2008年4月29日(火)22:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

紅葉山古墳

前橋市総社古墳群紅葉山古墳

・・・とは書いたものの、この古墳名はおいらが呼んでるだけで、仮称の域を出ない
宝塔山古墳のすぐ北にある御霊神社がそれだ



前々から「この神社の土台、怪しいなぁ・・・」と思っていたのだけれど
そう言えば何やら看板があったなぁと思って改めて見に行ったら、しっかり古墳だと書いてあった
しかし、この仮称紅葉山古墳がどんな古墳だったのか、知る手がかりはない
上毛古墳綜覧にも、群馬県遺跡台帳にも載っていないのだ



改めて神社土台となった古墳を見てみる
確かに比高はかなりあり、それっぽい雰囲気はあると思う
上に建っているのは奉安殿であり、社殿ではないらしい
移築される前、つまり戦前はこの中にご真影が納められていたというわけだ



南西側から見てみる
古墳であったという手がかりはまったく見当たらない
左手に延びるブロック塀は、小学校の塀



2008年4月28日(月)22:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

試乗会にて

地元の教習所で、カワサキのバイクの試乗会があると聞いたので、見に行ってきた
最近もっぱら気になっているのがこれ、ZZR1400
タミヤからキットの発売が予告され、どんなバイクなのだろう?と興味津々な今日この頃



もう1台、こっちは最寄りのカワサキのショップのものを見学
イグニッションキーの外周にある、イモビライザーの赤いリングがかっこいいと思った



現状でおいらが普通に乗れるものとしては、ninja250Rが一番気になるところ
おいらの新赤丼号より1馬力低いくせしてレッドゾーンは13000回転というあたりがただ者じゃない感じ
メーターが200km/hまで刻まれているのも・・・



このあたりのバイクは、あまり興味が向かない
いや、足が届かないとかそういうのじゃないんだけどw



でもこの青はちょっと惹かれるものがあるかなぁ・・・
カワサキって青の配色のセンスがいいんだよね



2008年4月27日(日)23:11 | トラックバック(0) | コメント(3) | 乗り物 | 管理

軍配山古墳その2

そんなわけで、1周年の記念に再訪してきた
ついでに今回初めて墳頂にも登ってみたりして



南側の墳丘が崩されているためか、見る角度によってだいぶ印象が異なるのが特徴
これは南東側から見たところ



墳頂に建つ「軍配山古墳碑」
彦狭島王の墳墓との伝承があるだとか皇紀八百年前後(え、西暦だと140年前後・・・?)の築造だとか何だとかいろいろ書いてあり、裏は昭和5年の発掘時に出土したものの一覧が書いてある



墳頂より、滝川一益の気分になって神流川方面を見てみる
しかし、ここからでは、神流川古戦場跡は大して見えなかった
もしかして、滝川一益の敗因って・・・?



滝川一益がどーのとか、軍配山古墳の詳細がどーのとかは、この看板にて熟知すべし
実際、築造年代はけっこう古く4世紀末のものとされ、主体部も竪穴式だったようだ
直径約40m、高さ約6mの円墳である



2008年4月27日(日)22:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理


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