厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 


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上庄司原2号墳・4号墳

富士見村横室地区にある「横室古墳公園」
ここには1基の古墳が保存されているほか、2基の古墳石室が移設保存されている
この横室地区には、上毛古墳綜覧で9基(勢多郡富士見村第6号~第14号)の古墳の存在が記録されているのだが、看板に描かれた7基は、図で見てもどれがどれにあたるのか、まったく分からない状態だ



上庄司原2号墳・4号墳石室の説明看板
対比しながら見ていくと石室の進化が分かるというナイスな構造だが、どうせなら1号墳の石室の写真も並べてほしかった
ちなみにこの公園の裏にある道はよく出かけていた道で、当時は古墳公園の存在には全く気付かなかった



2号墳石室
奥壁に巨石を使っていないところが興味深いところ
この2号墳、上毛古墳綜覧をそのまま信用するのであれば、発掘(盗掘)無、石槨現存と記されている富士見村第8号かも知れない
古墳自体は周堀が馬蹄形に巡る円墳で、石室は角閃石安山岩の削石積
墳丘の規模は15mで、テラスを含むと28m。石室全長は右壁が5.85mで左壁が5.90mだったという



4号墳石室
覆い屋根があるせいか、ちょっと離れたところから見るとまるでキャンプ場の設備のように見えるが、そう見えてしまうほど、この角閃石安山岩(一部で輝石安山岩も使用)の截石切組積が立派な造りだとも言える
上毛古墳綜覧で石槨現存と記された富士見村第13号かとも思ったが、富士見村教委が発行した調査報告書では位置が大きく違い、別の綜覧記載古墳なのかも知れない
墳丘の規模は15~16m、石室全長は右壁が5.24m、左壁が5.20m
なお、この4号墳のすぐ東から、方形周溝墓(上庄司原西遺跡)が1基発見され、下庄司原東遺跡でも4基が発見されている



2008年4月20日(日)22:23 | トラックバック(0) | コメント(0) | 勢多郡富士見村 | 管理

保渡田薬師塚古墳

高崎市旧群馬町、保渡田古墳群に属している前方後円墳
上毛古墳綜覧群馬郡上郊(かみさと)村第1号墳で、天和3(1683)年に発掘されたという
その際に馬具19、鏡1、玉類その他が出土しており、それらはこの南に建つ西光寺が所有、かみつけの里博物館に展示されている



雪の日はこんな感じになる
写っているのは前方部で、西側から見たもの
南側は西光寺が建ち、大きく改変されてしまっている



墳丘上に登り、後円部から前方部を見ると改変の具合がよく分かる
全長約100m、同じ保渡田古墳群の保渡田八幡塚古墳や井出二子山古墳と似た規模である



後円部上に展示されている舟形石棺
横から見るとまるで乳母車か何かのようだが、これは風化によるもの
素材に使われた凝灰岩は非常にもろく、風化しやすいが、その加工技術はなかなかのものがある



正面から見ると、卵のように丸みを帯びたかたちであることがよく分かる


2008年4月19日(土)21:51 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理

宝塔山古墳

前橋市宝塔山古墳
一辺が50m以上ある大型方墳で、南側に幅約20mの周堀の跡が確認されている
名前の由来は、復原図の文面を参照・・・とはいえ、実はこの秋元家、おいらの先祖の主人でもあったりする
前橋市の古墳としては初めて訪れたことになるわけだけど、訪れた当時このことは知らなかったはず・・・



古墳の傍らにある推定復原図
この図では三段に構築されているが、手元の資料では二段構築とある・・・どっちが正しいんだ?w



石室入口
この上に総社藩主秋元家はじめ何やら古そうな墓がいくつも建っている



石室内部、羨道から玄室や石棺を見る
群馬県内の後期古墳の例に違わず、ここも角閃石安山岩の截石切組積で、なかなかに壮観な作りをしている
壁面には漆喰や壁画があったと推定されている



脚部に格座間(こうざま)をくり込んだ、精緻な作りの家型石棺
中身についてはおいらまったく関知しないのでそのつもりで・・・どうせ空だろうけどねw



2008年4月18日(金)23:20 | トラックバック(0) | コメント(2) | 前橋市 | 管理

月光一一型 前期生産型

今月初頭に完成したタミヤの月光
いろいろな角度で撮ってみたので貼る



お気に入りの構図


デカールがどうもダメだった
ソフターやセッターに対し、もろい感じ



プロポーションは悪くないのにね


このあたりの諸々の塗りにだいぶ腐心したかなぁ


2008年4月17日(木)21:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | 模型 | 管理

ついでにバスも撮る

撮ってはきたものの、何だか貼る場所がないのでここにまとめて貼っておく

伊勢崎駅前の群馬中央バス



伊勢崎市内を回っているらしい
隣の市に住んでるのに、巡回コース知らないw



東武博物館のキャブオーバーバス
小・中学時代に東武のバスで通学したおいらにとって、東武バスは特別な存在だ
上電バスで復活したボンネットバスが走ってたくらいで、それ以外にこれほどの古いバスはいなかったけどw



その車内
淡緑色のふくらみの中にエンジンがあり、それ自体はこのキャブオーバーバスの背後にラジエーターごと展示されている



あちこち回ったついでに都バスも撮れたので貼っておく
さすがに船堀まで来ると、馴染みのない行き先ばかりだ



2008年4月16日(水)23:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | お出かけ | 管理

東武博物館

地元を走っていた路面電車の写真展を見に、東武博物館へ行ってきた
気になっていた写真集を買って、見てみたらカラー写真が載っていてびっくりした

それはさておき、デハ5の車内
古き佳き雰囲気が漂っているなぁ・・・



古き佳きと言えば、5700系も忘れちゃいけない
旧型国電ってこんなかんじだったのかなぁと、見学しながらしみじみしてしまった



日光軌道の車輌も展示されている
窓枠が朱色なのがちょっと見慣れない感じだけど、車輌が残っていることに感謝である



その車内
連接台車なので、連接面はこんな感じ
さっきのデハ5といいこれといい、車内には木のぬくもりが溢れている



案外見過ごしがちなのがこれ
水戸街道を挟んで、東武博物館の向かいの高架下にあるので、存在を忘れてしまいそうになる



2008年4月16日(水)23:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | お出かけ | 管理

相馬ヶ原過去画像

2004.4.11、巡察隊のテントにて


2006.10.15、再び同じ場所にて

「目の前にシャバの撮影者がいるが気にするな」
「ですが・・・」

とか言っているわけではないと思う・・・w



ま た 同 じ 構 図 か !


2007.4.15、またまた同じ場所にて

よっぽどお気に入りらしい



そのすぐ近くにいた高機動車
ナンバーが連番だった



2008年4月15日(火)22:12 | トラックバック(0) | コメント(2) | 自衛さん | 管理

浅間山古墳

まずは「せんげんやま」であって「あさまやま」ではないということを最初に書いておこう
高崎市にある大型の前方後円墳で、倉賀野古墳群に属しており、高崎線の車窓からもちらっとだけ見える
詳しくはこの看板にて熟知していただいて、さてどれだけの大きさなのかというと・・・



こんなにでっかいのである
ちらっと写っている赤丼号もこんなに小さく見えるくらいに引かないと、墳丘全体がファインダー内に収まりきらないのだ



前方部
後円部の高さに比べて、前方部がかなり低いのが初期の前方後円墳の特徴



後円部
先ほどの前方部と同じ位置から見ると、こんな感じである
手前の畑はかつての周堀の跡で、航空写真で見るとはっきりと形が分かるはずだ



真横から後円部を見る
このでかさ、何というか呆れたくもなってくるw



2008年4月15日(火)21:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

南下古墳群D号墳・宮代古墳

先日貼った南下古墳群D号墳
機会があったので再訪してみたら、石室入口がはっきり露出していたので見学してきた



ということでこれが石室入口
前庭部にあたる部分の葺石がよく残っているのが分かる



石室内部
入口自体はほんの数十センチほどの高さしかないので、中に入るには相当苦労しそうなのでやめておいた



地図でみると南下古墳群A号墳の南側に位置するのが、宮代古墳
現状は近在の人たちの墓地となっていて、南側から見れば何とか古墳に見える程度



北西側から見ると、墓地の背後に庚申塔が多数建っていたりと、改変著しく古墳とは分からないレベル
ここ宮代古墳からから北に南下古墳群、その外周を取り巻くように大林古墳群、宮後古墳、穴薬師古墳と断続的に古墳が続いている



2008年4月14日(月)20:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

金古町第68号御嶽山古墳・第70号

上毛古墳綜覧に金古町第68号御嶽山と記載されているのがこの古墳
当時の地名は群馬郡金古町金古字如来、その後群馬町を経て現在は高崎市金古町
現状どう見ても円墳なのだが、綜覧には前方後円墳とある



発掘(または盗掘)の有無は不詳だが、全長40尺、前方部の高さ6尺、後円部の高さ12尺とある
換算するとそれぞれ約12.1m、約1.8m、約3.6m
現状は高さが1m程度しかないようだが・・・



それに、前方部にあたるはずの部分も見当たらない・・・

このすぐ右側に70号があり、さらにもう一基を加えた現状三基で如来古墳群を形成している



この藪の塊が金古町第70号
これも前方後円墳と記載されており大きさ15尺、前方部の高さ4尺、後円部の高さ8尺とある
換算するとそれぞれ4.5m、1.2m、2.4mとなるが、これまた現状は数字がだいぶ減っている感じだ



こうして見ると、言われないと古墳だと分からないかも知れないレベルだ
右奥の、木の生えた小山も古墳なのだが、綜覧記載の古墳のどれに該当するのか、現時点では不明
如来地区の古墳は金古町第57号から第71号まで、15基が記載されているが、そのほとんどは耕作地や宅地化で消滅した



2008年4月13日(日)22:11 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理


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