厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



埼玉県

埼玉県深谷市お手長山古墳その1

埼玉県深谷市お手長山古墳
埼玉県深谷市岡にある帆立貝形古墳で、岡部町史によれば全長49.5m(後円部の径37m、前方部の長さ12.5m)とあるが、現状はさらに短くなっているようだ



説明看板
この表示のしかただと、自分の立っている側が前方部と勘違いしそうだ



墳丘上には天手長男神社の社殿が載っかっている


北北東より見る


2009年2月10日(火)22:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市前原1号古墳

埼玉県深谷市前原1号古墳
埼玉県深谷市普済寺にある円墳で、岡部町史によれば径10m、高さ1.5mとある



墳丘裾部は石垣化されているが、そこそこ比高は残っているといった感じ


墳丘の南側は墓地化されている


墳頂部この辺りだけ一段とこんもりしている
すぐ南東にある愛宕神社古墳、そして消滅したという8基の古墳とともに、前原古墳群を形成していたらしい



2009年2月9日(月)21:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市愛宕神社古墳

埼玉県深谷市愛宕神社古墳
埼玉県深谷市普済寺にある方墳で、岡部町史によれば一辺37m、高さ5.5mとある



説明看板
ここでは「愛宕神社古墳」とあるが、岡部町史では「愛宕山古墳」とある



同じ愛宕の名を冠する方墳として、地元前橋市総社古墳群の上毛古墳綜覧群馬郡総社町第10号愛宕山古墳の存在が思い出されるが、規模としてはそれよりも一回り小さい感じ


西北西より見る
終末期の方墳ということは、南側に横穴式石室があるはずなのだが、見つかっていないようだ
あくまで群馬の古墳の例でいえば、石室はかなり立派なものであるはず



墳頂部
小振りな社殿が載っかっている



2009年2月8日(日)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市蛇喰古墳

埼玉県深谷市蛇喰古墳
埼玉県深谷市岡にある円墳で、岡部町史によれば径約25m、高さ約2mとある



国道17号(中山道)のすぐ脇にあるが、墳丘の半分以上が藪に覆われている


東より見る
近所の人に聞いたところ、本古墳についての情報はあまりなかったが、高崎線の線路を越えた先に7、8年前まで古墳があったとのことであった
しかし、それについての詳しい話はまったく分からずじまい



南より見る
墳丘の向こうには、利根川の河岸段丘が広がっている



墳頂部
石祠がちょこんと載っかっているが、どの神様を祀っているのかは不明(前出の近所の人は「お稲荷さんか何か」と言っていたが)



2009年2月7日(土)21:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市菅原稲荷神社古墳

埼玉県深谷市菅原稲荷神社古墳
埼玉県深谷市普済寺にある円墳で、埼玉県古墳詳細分布報告書では大きさ31mとある



墳頂部には稲荷神社が載っかっている
画像の奥にも鳥居が見えるが、こちらは菅原神社という別の神社のもの



墳丘はだいぶ変形しているが、一目で古墳と分かる


北西より見る
西側にある埼玉県道355号中瀬普済寺線からもよく見える
深谷市と合併する前に刊行された岡部町史によれば、墳丘の高さは4mとのこと



埼玉県古墳詳細分布調査報告書によれば周堀が確認されているとのことであるが、現状ではまったく分からなかった


2009年2月6日(金)21:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市皿沼西遺跡その4

出土品


古墳時代のものがあると、やはりそちらに目が行く


それにしても、こうした展示は本当にありがたいものである
ただ遺構を見るだけでなく、そこに何があったのかを知ることができる



初めての県外での現説で、そんなことを考えていた


2009年1月31日(土)21:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市皿沼西遺跡その3

遺跡の東側は畠の跡が見つかっている


反対側から見ると・・・ナスカの地上絵みたいな感じがした


ちゃんとした跡も出ている
右奥は赤城山、左奥には白く谷川連峰も見えている



天仁元(1108)年に噴火した浅間山の火山灰が積もった層


2009年1月30日(金)21:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市皿沼西遺跡その2

一部の竪穴式住居では、床面から噴砂の跡が確認されている
大地震が起きたときに、地下の砂の層が液状化し、地割れした箇所から地表に出てきたもので、資料によれば弘仁9(818)年か元慶2(878)年のものである可能性があるようだ



4号掘立柱建物跡


その南の遺構
白線を見ていると、何だか中南米あたりの遺跡にありそうな模様に見えてきた



建て替えの痕跡のある掘立柱建物跡


井戸の跡も見つかっている


2009年1月29日(木)21:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

埼玉県深谷市皿沼西遺跡その1

埼玉県深谷市皿沼西遺跡
深谷市上敷免字皿沼にある古墳・律令・平安時代の遺跡である
太田市上野国新田郡庁跡と同じ日に現地説明会が行われたので、見学してきた



竪穴式住居跡
現地説明会の際にいただいた資料を見る限り、番号は振られていないようだ
左に重なっている赤線が12号竪穴式住居、右側に重なっている赤線が11号竪穴式住居跡



この遺跡では、かまどの向きはほとんどが北向きであった


しかし中には、切り欠きがないのにかまどが設置されていた住居もあったようだ
資料では、ここも番号が振られていない



ここのかまどは、やや南よりの西側
先ほどの住居とはちょっと時期が異なるのかも知れない



2009年1月28日(水)22:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理

神川町植竹古墳群No.78

神川町植竹古墳群No.78
埼玉県神川町にある円墳である



この78という数字は、どうやら神川町全体での古墳の通し番号のようだ
植竹古墳群に於いて78番目という意味ではないらしい



本古墳は横穴式石室(現在は埋没?)を有しており、ちゃんとした古墳なのだが、ネットでいろいろ調べてみたところ、古墳ではなく戦国時代、武田と北条の合戦での武田側の戦死者を葬った塚であるといった見解をしているところがあった


しかし、本古墳は石室があるということで、もしかしたら別の塚と混同している可能性も考えられる


ちなみに本古墳のすぐ東側にあるこの道路は、日本ニッケル鉄道(上武鉄道)の廃線跡
実は10年ほど前にこの道をたどって廃線跡ウォーキングをしているのだが、当時は本古墳の存在には全く気付かなかった・・・



2008年8月26日(火)22:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 埼玉県 | 管理


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