厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



2008年4月を表示

大類村第10号・高崎市下滝町淵ノ上13所在古墳

高崎市中大類町の公民館敷地内にある古墳
上毛古墳綜覧群馬郡大類村第10号で、元島名将軍塚古墳の西北西約900mの地点、県道133号線の脇にある
一見ただの土盛りのようだが、明治20年に発掘され、勾玉と直刀が出土している



上毛古墳綜覧では墳形不詳規模不詳とあるが、現状約10mほどの長さがあり、高さは7、80cmほどだろうか
墳丘には土管の輪切りが何本も置かれ、手前にはブランコ。子供の遊び場になってしまっている



高崎市下滝町淵ノ上13所在古墳
綜覧記載漏れとなった古墳で、高崎市では所在の地番をそのまま古墳名として呼んでいるため、こんな古墳名となっている



元島名将軍塚古墳の南東約300m、高崎市歴史民俗資料館の裏手にあり、慈眼寺裏古墳群もすぐそこにあるというなかなかの好立地
道路を挟んですぐ北が中学校のため、見学・撮影時にちょっと気を使いそうな一基である



2008年4月30日(水)22:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

元島名将軍塚古墳

高崎市元島名将軍塚古墳
上毛古墳綜覧では群馬郡京ヶ島村第1号将軍塚と記載されているが、王山とも呼ばれていたようだ
記載当時は前方後円墳とされていたが、その後の発掘調査で前方後方墳と分かった



詳しいことは例によって看板で熟知(ry
群馬県立歴史博物館友の会が刊行した「古墳めぐりハンドブック」では全長91m、年代は4世紀中葉となっている



後方部を北より見る
元島名将軍塚古墳は前方部が南東側を向くようで、この向きは群馬の初期の古墳の特徴でもある



後方部の南側、案内看板の測量図でも書かれている崩れた部分が、しっかりと分かる
また、比高がかなり高く、存在感がある



どのくらい高いのか、手前のバイクと比較するとよく分かると思う
公園の滑り台などの遊具が置かれているが、藪に飲み込まれてしまっている



2008年4月30日(水)21:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

遠見山古墳

前橋市総社古墳群遠見山古墳
古墳名の由来は看板のとおりなんだけど
ということは、総社藩秋元家の家老だった先祖も、この古墳の上に立って遠くを見てみたことがあるはずだなぁ・・・
「群馬県の歴史散歩」(山川出版社刊)の記事では、全長70m、5世紀代の築造で竪穴式の主体部が予想されるとある



さて、後円部北面から墳丘に登ってみようとすると、途中で途切れまるで獣道のような感じになるので諦めるしかない
この篠藪自体はかなり昔からあるようで、昭和29年刊の「総社町史」でも「墳丘は畑、南面にしの茂る」と書かれている



墳丘全体を北北西部より遠望する
このあたりはかつての総社城の城郭内であり、おいらの立ち位置がほぼ中心部にあたる



前方部を真西より見る
周囲はすっかり耕作地となり、周堀の跡も分からない状態



そこから少し南側に行った地点から見る
こうしてみるとそこそこ大きめには見えるが・・・
左後方、残雪の武尊連峰。右後方は赤城山



2008年4月29日(火)22:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

紅葉山古墳

前橋市総社古墳群紅葉山古墳

・・・とは書いたものの、この古墳名はおいらが呼んでるだけで、仮称の域を出ない
宝塔山古墳のすぐ北にある御霊神社がそれだ



前々から「この神社の土台、怪しいなぁ・・・」と思っていたのだけれど
そう言えば何やら看板があったなぁと思って改めて見に行ったら、しっかり古墳だと書いてあった
しかし、この仮称紅葉山古墳がどんな古墳だったのか、知る手がかりはない
上毛古墳綜覧にも、群馬県遺跡台帳にも載っていないのだ



改めて神社土台となった古墳を見てみる
確かに比高はかなりあり、それっぽい雰囲気はあると思う
上に建っているのは奉安殿であり、社殿ではないらしい
移築される前、つまり戦前はこの中にご真影が納められていたというわけだ



南西側から見てみる
古墳であったという手がかりはまったく見当たらない
左手に延びるブロック塀は、小学校の塀



2008年4月28日(月)22:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

試乗会にて

地元の教習所で、カワサキのバイクの試乗会があると聞いたので、見に行ってきた
最近もっぱら気になっているのがこれ、ZZR1400
タミヤからキットの発売が予告され、どんなバイクなのだろう?と興味津々な今日この頃



もう1台、こっちは最寄りのカワサキのショップのものを見学
イグニッションキーの外周にある、イモビライザーの赤いリングがかっこいいと思った



現状でおいらが普通に乗れるものとしては、ninja250Rが一番気になるところ
おいらの新赤丼号より1馬力低いくせしてレッドゾーンは13000回転というあたりがただ者じゃない感じ
メーターが200km/hまで刻まれているのも・・・



このあたりのバイクは、あまり興味が向かない
いや、足が届かないとかそういうのじゃないんだけどw



でもこの青はちょっと惹かれるものがあるかなぁ・・・
カワサキって青の配色のセンスがいいんだよね



2008年4月27日(日)23:11 | トラックバック(0) | コメント(3) | 乗り物 | 管理

軍配山古墳その2

そんなわけで、1周年の記念に再訪してきた
ついでに今回初めて墳頂にも登ってみたりして



南側の墳丘が崩されているためか、見る角度によってだいぶ印象が異なるのが特徴
これは南東側から見たところ



墳頂に建つ「軍配山古墳碑」
彦狭島王の墳墓との伝承があるだとか皇紀八百年前後(え、西暦だと140年前後・・・?)の築造だとか何だとかいろいろ書いてあり、裏は昭和5年の発掘時に出土したものの一覧が書いてある



墳頂より、滝川一益の気分になって神流川方面を見てみる
しかし、ここからでは、神流川古戦場跡は大して見えなかった
もしかして、滝川一益の敗因って・・・?



滝川一益がどーのとか、軍配山古墳の詳細がどーのとかは、この看板にて熟知すべし
実際、築造年代はけっこう古く4世紀末のものとされ、主体部も竪穴式だったようだ
直径約40m、高さ約6mの円墳である



2008年4月27日(日)22:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理

軍配山古墳その1

上毛古墳綜覧佐波郡玉村町第1号軍配山古墳
ちょうど1年前の今日、古墳訪問を始めたときのファーストショットがこれ
ここの古墳自体は高校のとき、地元玉村町に住む同級生に案内してもらったことがあり、まったく知らない古墳ではなかった



ここから少し西に行った県道40号藤岡大胡線にも案内板があり、所在自体は高校当時から知っていたと言える
この県道を通ったとき、軽い気持ちでついでに立ち寄ったのがすべての始まり
それから1年、群馬県内だけで200以上の古墳を訪れ、その写真を撮ってきた



その後もやはり何度か見に行ったりしており、馴染みのある古墳の一基でもある


2008年4月27日(日)22:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理

M24チャーフィー

新町駐屯地の展示車
主要諸元は併設の説明看板で(ry



このM24は展示数が少なく、調べてみたところ新町(群馬)、土浦(茨城)、練馬(東京)、大和(宮城)、新発田(新潟)、富士(静岡)、玖珠(大分)の各駐屯地でしか見られないようだ
確認が取れていないのがもう1台、同じ群馬の吉井分屯地にも展示されているらしい



展示車が圧倒的に東日本に偏っているのは、何か理由でもあるのだろうか
ところで、唯一本州以外の展示車が九州の玖珠駐屯地にあるのだが、ここの展示車は、現行の二色迷彩が塗られているとのことで、画像も見つけたがぜひこの目で見てみたいものだ



それにしても、74式に比べると、61式以上にこぢんまりとしたたたずまいを見せている
「軽戦車」なのだから、それも当然といえば当然か



イタレリのキットを手にとってちょこっと見比べてみたが、防盾や転輪をはじめだいぶ印象が違う
兵器とはいえ、マスプロモデルなのだからそんなに形状に差は出ないはずなのだが・・・イタリア人の感覚だとそうなるのだろうか?



2008年4月26日(土)22:25 | トラックバック(0) | コメント(2) | 自衛さん | 管理

総社二子山古墳その2

さて、この古墳の特徴は、前方部と後円部それぞれに横穴式石室があるということ
この2つの石室は同時に作られたものではなく、わずかに時代差がある



墳丘上部より、前方部石室入口周辺を見下ろす
草に埋もれて見づらいが、わずかに前庭部が見受けられる



前方部石室入口
4年ちょっと前に、崩落の危険があるということで立ち入り禁止となってしまい、現在は中を見ることが出来なくなったのは残念な話である
こちらの石室は6世紀末のもので、自然石乱石積
玄室に胴張りが見られるらしい



墳丘上部より後円部石室部分を見下ろす
金網のかかっている部分は石室入口ではなく、天井石の崩落した箇所である



後円部石室入口
こちらはだいぶ以前に天井石が崩落しており、その頃から見学不能となったため、この通り厳重に柵が巡ってしまっている
石室は6世紀後半のもの、角閃石安山岩の削石積(一部資料に乱石小口積との記載あり)で一部に切組も見られるとのこと
こちら側は胴張りのない玄室らしい



2008年4月25日(金)22:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

総社二子山古墳その1

上越線群馬総社駅から南に2つ目の踏切、その名も二子山踏切
この踏切の東側にある、木々の生い茂った場所が総社二子山古墳である



墳丘北西部、前方部の端から墳丘を見る
周囲は宅地化が進み、墳丘全体をゆったりと見られる場所はなくなってしまった
石柱には「史跡」とあるが、市指定史跡でも県指定史跡でもなく国指定史跡なのである



ま、詳しいことはこの石碑で熟知いただいて、と
写真に撮ると、写り込みが激しくて見づらいのはしかたないか
おいらと愛用のバイクもしっかり写り込んでいるしね



さて、前方部から墳丘上部に上がるとすぐに目に入るのがこれ
豊城入彦命は崇神天皇の第一皇子で、ヤマトタケル伝説のモデルともされる人物なのだが、後に上毛野氏の祖先ともなり、その陵墓がこの古墳であるという伝説がある
・・・とはいえ、最近の研究では、年代的にその陵墓はここではない可能性が高いとのことだ



前方部より後円部を見る
新緑が目に鮮やかで心地いい場所だ



2008年4月25日(金)22:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理


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