厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



2008年7月を表示

渋川市中ノ峯古墳その2

何となくだが、墳丘の裾部自体はもう少し下の方に掘り下げられそうな気がするのはおいらだけだろうか・・・


石室入口


石室内部


2008年7月31日(木)21:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

渋川市中ノ峯古墳その1

渋川市中ノ峯古墳
北群馬郡子持村を経て、現在の渋川市北牧にある円墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ



説明看板には、被葬者の数を修正した跡がある


説明看板とは別に石碑も建っている


こちらからみると、軽石層に埋まっていたというのがよく分かる


2008年7月31日(木)21:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

渋川市黒井峯遺跡

渋川市黒井峯遺跡
北群馬郡子持村を経て、現在の渋川市中郷にある遺跡
まずは説明看板を読んでいただいて・・・



長いので、右側も・・・


少し離れた場所にある別の説明看板
とても読みづらい・・・



遺跡自体は埋め戻されて保存されている
しかし、それだけだとただ単に広い空間にしかならないので、資料館なり復元施設なり建ててもらいたいところだ



訪問時は天気もよくなく、二ッ岳は見えなかった・・・


2008年7月30日(水)21:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

群馬郡長尾村第14号大塚古墳

群馬郡長尾村第14号大塚古墳
北群馬郡長尾村、北群馬郡子持村を経て、現在の渋川市吹屋にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ72尺(約21.8m)、高さ18尺(約5.5m)とある



墳丘上は稲荷社となっており、そこへ至る階段の脇には石碑が建っている
綜覧では円墳と記載されているが、現状は方墳状になっているためか、この石碑では方墳と書かれている
また、この石碑にはしっかりと「古墳」と書かれているのだが、渋川市教育委員会で伺った話では、どうも古墳ではなく塚である可能性があるといった見方が出ているとのこと
実際に発掘調査をしたわけではないので確定はできないとも聞いた



まぁ、そう言われてみれば確かに規模が大きいような気もしてくる
本古墳の築造年代がいつ頃と想定されているのかどうかは分からないが、6世紀には榛名二ッ岳が噴火しており、それ以降の築造ではあると思われる



この旧子持村周辺はその二ッ岳爆裂の際の降下物が非常に厚く堆積しており、黒井峯遺跡や中ノ峯古墳などの存在がよく知られているところでもある


それらを踏まえて考えても、6世紀の半ば以降にこの地域に有力な豪族がいた形跡はあまり伝えられていないようなので、やはりこれは塚なのだろうか・・・


2008年7月29日(火)21:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

群馬郡渋川町第1号虚空蔵塚古墳

群馬郡渋川町第1号虚空蔵塚古墳
北群馬郡渋川町を経て、現在の渋川市渋川にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ60尺(約18.2m)、高さ12尺(約3.6m)とある



説明看板には、石室の実測図も併記されている


石室入口
ここでも、前庭部に庚申塔が建っている



石室内部
虚空地蔵尊が鎮座している
平成の大合併前の渋川市内に於いて、石室があり封土もちゃんと残っている古墳は、これしかない



2008年7月28日(月)21:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

群馬郡豊秋村第1号十二山古墳

群馬郡豊秋村第1号十二山古墳
北群馬郡豊秋村を経て、現在の渋川市中村にある円墳で、上毛古墳綜覧では東西66尺(約19.9m)、南北33尺(約9.9m)、高さ10尺(約3m)とある



墳丘上には大谷神社が鎮座し、墳丘もだいぶ改変されているが、綜覧記載の数字を見る限り、高さがいくらか下がったほかは、昭和10年当時と規模があまり変わっていないようである


石垣の積まれ方を見ても、そこらにある小さな神社といった趣で、古墳としての面影はあまり感じられない
すぐ南を東西に走る県道35号線は結構知っている道だったりするので、「え、そこに古墳があったの?」といった気分でもある



とはいえ、歩道の向こうに、木々に隠れるようにして存在するので、言われなければ気付かないレベルでもあったりする・・・


2008年7月27日(日)18:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理

北群馬郡吉岡町大林2号古墳・群馬郡駒寄村第51号十石塚古墳

北群馬郡吉岡町大林2号古墳
北群馬郡吉岡町南下にある古墳で、上毛古墳綜覧番号不明



北群馬郡吉岡町南下古墳群のすぐ北にある北群馬郡吉岡町教育委員会文化財課からもよく見える古墳で、二段構築の円墳と思われるが、詳しくは不明
綜覧番号も不明であるが、群馬郡明治村第32号~第53号古墳のいずれかと推測される
東側はスポーツ施設となり、いくらか墳丘が削り取られているようだ
本古墳の北には中学校があるのだが、吉岡町教育委員会で伺った話では、昭和44年の建設の際、中学校の敷地内にあった古墳が3基ほどつぶされているとのこと



群馬郡駒寄村第51号十石塚古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、綜覧では東西の大きさ36尺(約10.9m)、南北の大きさ60尺(約18.2m)、高さ20尺(約6.1m)とある



・・・が、昭和24年に群馬大学の尾崎教授が調査したところ、これは古墳ではないと判断している
規模の割に比高があるとかいった話はさておき、標柱にも「古墳」とは書かれておらず、吉岡町教育委員会でも「よく分からない」とグレー扱いしている
この周辺の地名「大久保」の由来となった大窪太郎の墓とも言われているが、実際に大窪太郎が眠っているのかどうかについても「伝承ではそうなっているが・・・」と、これまたグレーな話であった



2008年7月26日(土)21:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳・群馬郡明治村第133号古墳

群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ8尺(約2.4m)とある



現状、封土も失われ古墳には見えない状態だが、綜覧記載時にはまだいくらか封土があったようだ
吉岡町教育委員会で聞いたところ、封土があった頃、手前の道路は大八車が通れるくらいの幅しかなかったのではないかとのこと
つまりその後の拡幅工事で封土が失われたようだ
ケヤキの木でだいぶ崩されてはいるものの、石室の側壁の一部が残存、内部には薬師像が祀られている



群馬郡明治村第133号古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町下野田にあった円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ4尺(約1.2m)とある



この数字を見ると、のちにだいぶ改変されたか削平されたかしていたようで、復元後は径12m、高さ2mとなっている
関越自動車道の建設に伴い、北群馬郡吉岡町役場の敷地内に移築復元保存されたもの
かつての所在地名「下野田字滝沢」から「滝沢古墳」と名付けられている
復元古墳にしては葺石が見慣れないかたちをしているが、これはオリジナルのものではないとのこと
また、本来なら墳頂部には埴輪がいくつか並んでいたのであるが、これも復元の際に載せなかったとのこと



石室内部
平日なら、役場に申し込めば石室内の見学ができるようだ



2008年7月25日(金)22:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その2

正面斜め前に回ってみると、東国ではめったに見ない形態の古墳であることを実感する
もちろん復元されたものであるが、復元前のこちら側は葺石をはじめ墳丘がだいぶ崩壊した状態で、その始まりは平安時代初頭に起きた地震による可能性も考えられるとのこと



八角形墳というのは畿内では天皇陵とされているが、個人的にはそれはどうかと思う
関東で言えば、本古墳の他に、藤岡市の伊勢塚古墳(綜覧多野郡美土里村第54号伊勢塚古墳)、多野郡吉井町の神保一本杉古墳(綜覧多野郡多胡村第113号古墳)、そして東京都多摩市の稲荷塚古墳がそうだとされており、風水に例を見るまでもなく中国文化の影響ではないかとも思える



石室内部
石室材はほとんどが抜き取られており、また抜き取り痕も見つかっている
その結果、一部に切石を使った自然石乱石積の横穴式石室であったと推定されているが、石室材自体は玄室部の右壁に1個、左壁に2個、奥壁に2個の計5個のみが残存していた
この石室内から江戸期の寛永通寶が見つかっており、当時の闖入者が落としたものと思われる



他の古墳ではあまり見られない、古墳の土層(版築)
発掘調査で見つかった当時のままの形態でもある
この石室の形態から、本古墳が築造されたのは7世紀中葉をわずかに過ぎたあたりで、同じ吉岡町にある南下A号古墳(綜覧群馬郡明治村第54号古墳)に先行する可能性が否定できないとのことである



2008年7月24日(木)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その1

北群馬郡吉岡町三津屋古墳
北群馬郡吉岡町大久保にある八角形墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ
平成5年夏に偶然発見されたもので、そのいきさつは「吉岡町文化財調査報告書第7集三津屋古墳」に詳しく載っている



説明看板
全体図もついているので、眼下の古墳と見比べられるとっても素敵な構図



その説明看板の位置から見る
丘陵上にぬっと突き出た感じは、現代と古代とが入り交じっていて、なかなかにシュールである



角度を変えて見てみると、微妙に傾斜のある立地であることが見てとれる
調査報告書によれば「傾斜地形(10度前後の南傾斜)に盛土をすることで水平面を作りだし」ているとのことである



2008年7月24日(木)23:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理


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