北群馬郡吉岡町三津屋古墳その2 |
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| 正面斜め前に回ってみると、東国ではめったに見ない形態の古墳であることを実感する もちろん復元されたものであるが、復元前のこちら側は葺石をはじめ墳丘がだいぶ崩壊した状態で、その始まりは平安時代初頭に起きた地震による可能性も考えられるとのこと
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| 八角形墳というのは畿内では天皇陵とされているが、個人的にはそれはどうかと思う 関東で言えば、本古墳の他に、藤岡市の伊勢塚古墳(綜覧多野郡美土里村第54号伊勢塚古墳)、多野郡吉井町の神保一本杉古墳(綜覧多野郡多胡村第113号古墳)、そして東京都多摩市の稲荷塚古墳がそうだとされており、風水に例を見るまでもなく中国文化の影響ではないかとも思える
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| 石室内部 石室材はほとんどが抜き取られており、また抜き取り痕も見つかっている その結果、一部に切石を使った自然石乱石積の横穴式石室であったと推定されているが、石室材自体は玄室部の右壁に1個、左壁に2個、奥壁に2個の計5個のみが残存していた この石室内から江戸期の寛永通寶が見つかっており、当時の闖入者が落としたものと思われる
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| 他の古墳ではあまり見られない、古墳の土層(版築) 発掘調査で見つかった当時のままの形態でもある この石室の形態から、本古墳が築造されたのは7世紀中葉をわずかに過ぎたあたりで、同じ吉岡町にある南下A号古墳(綜覧群馬郡明治村第54号古墳)に先行する可能性が否定できないとのことである
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2008年7月24日(木)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理
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