厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



2008年6月を表示

太田市塚廻り古墳群第4号古墳

太田市塚廻り古墳群第4号古墳
田んぼの広がる中に、ぽつんと佇む古墳公園になっている



説明看板
ボールか何かを当てられたようで、へこみがひどい
看板の白黒写真には、第3号古墳もちらっと写っている



この第4号古墳は、豊富な埴輪列が出土したことでも有名
その配列もしっかり紹介されている



肝心要の第4号古墳はこんな感じ
残念ながら一部の復元埴輪が破損してしまっている



ちょうど第3号古墳があった場所の脇から見る
北関東自動車道太田桐生インターを出て、国道122号線を南下すると案内板があちこちに出ていて、迷わずにたどり着けたのには感心した



2008年6月30日(月)20:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 太田市 | 管理

太田市塚廻り古墳群

太田市塚廻り古墳群
昭和51年、圃場整備の際に偶然土中から7基からなる古墳群が発見された
このうち、第4号古墳が保存整備されている
画像は第4号古墳の西側から見る第1号古墳、第2号古墳、第6号古墳、第7号古墳跡地
いずれも埋め戻されてしまっているが、第1号古墳周辺の塚井という小字が気になる



第3号古墳跡地
第4号古墳のすぐ北にあった
この第3号古墳と第4号古墳の場所が塚廻りという小字なのだが、この地名、いつ頃からある名前なのだろうか・・・



第5号古墳跡地
第4号古墳の南西にある



2008年6月30日(月)19:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 太田市 | 管理

佐波郡玉村町小泉古墳群

佐波郡玉村町小泉古墳群
この説明看板がある芝根小学校の建設工事の際、土中に埋没した古墳がいくつも見つかっており、このうちの第3号が前方後円墳であった



現在、小学校の敷地内に石室の位置を示した盛り土と石列がある
こういったものは、見学時にだいぶ気を使うので面倒でもある



芝根小学校の北にある佐波郡玉村町No.439遺跡
現状は墓地だが、埴輪が出土しているらしい



同じく佐波郡玉村町No.438遺跡
こちらも墓地だが、霊廟がある
佐波郡玉村町教育委員会の方に伺った話では、手前の水の張った田んぼの周辺に、時期によってはクロップマークが出るとのこと
また、小泉古墳群の分布は、玉村町文化センター2階の玉村町歴史資料館で詳しく紹介されている



2008年6月29日(日)22:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理

佐波郡玉村町第33号古墳・佐波郡玉村町No.229遺跡

佐波郡玉村町第33号
佐波郡玉村町上之手にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ102尺(約30.9m)とある



墳頂部には若王子神社の社殿があり、さらに庚申塔や石碑なども建っている
訪問時、すぐ南側にある畑で農作業をしていた方に墳頂部への道を聞いて初めてたどり着けた
ついでに聞いた話では、以前はその南側にも盛り土があったとのことで、それも墳丘の一部だったのかも知れない



雪の日
墳丘のかたちがよく分かる



佐波郡玉村町No.229遺跡
佐波郡玉村町宇貫にある古墳で、綜覧記載漏れ



地元ではショウデンヤマと呼ばれていて、元は「聖天山」と言ったようだ
近所のお年寄りに伺った話では、妻沼聖天を勧請したためにこの名が付いたものだという
現在、墳丘上に多数の庚申塔が建ち、画像の手前側に巨石があるほかは古墳としての面影はあまりない
ここから北東へ約300m行くと、綜覧佐波郡玉村町第34号古墳がある



2008年6月28日(土)20:55 | トラックバック(0) | 佐波郡玉村町 | 管理

佐波郡玉村町第34号古墳・佐波郡玉村町No.238遺跡

佐波郡玉村町第34号古墳
佐波郡玉村町上之手にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ103尺(約31.2m)、高さ15尺(約4.5m)とある



畑と新興住宅が混在する場所に、ぽつんと佇んでいる
訪問時、柿がとても美味しそうに成っていた
「上之手薬師前古墳」とも呼ばれており、佐波郡玉村町の遺跡台帳ではNo.239遺跡として登録されている



反対側は墓地となっている
葺石が大量に露出しているのが見える



佐波郡玉村町No.238遺跡
佐波郡玉村町上之手にある古墳で綜覧記載漏れ



こちらも墓地となっている


2008年6月27日(金)21:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理

群馬郡岩鼻村第19号古墳・高崎市綿貫町市ヶ原1117所在古墳

群馬郡岩鼻村第19号古墳
現在の高崎市綿貫町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ66尺(約19.9m)、高さ8尺(約2.4m)とある



昭和10年当時は国有地で、地目が小社地となっているが、現在では個人所有の畑となっているようだ
平成10年に刊行された綿貫観音山の発掘調査報告書内には「普賢寺東古墳」という円墳が「径約30m川原石積み壁面赤色塗彩石室」と紹介されているのだが、これは本古墳のことなのか、それとも道路の向かいの墓地(高崎市綿貫町堀米内1552所在古墳)のことなのか、はっきりしない



高崎市綿貫町市ヶ原1117所在古墳
高崎市綿貫町にある円墳で、綜覧記載漏れ



綜覧記載漏れなのは、当時このあたりが陸軍岩鼻火薬製造所の敷地内にあり、防諜上の観点から調査ができなかったためである
本古墳は群馬県立歴史博物館の入口前の芝生内にあるが、先述の綿貫観音山古墳発掘調査報告書によれば、「(綿貫古墳群の円墳群は)『群馬の森』の正面ゲート付近から芝生広場付近で、約30基前後が存在したと推定される」とある



この古墳のものと推定される調査図が県立歴史博物館に収蔵されており、それによれば角閃石安山岩加工材使用の横穴式石室を有しており、また後期古墳に通有の直刀・鉄鏃が出土しているらしい


2008年6月26日(木)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

高崎市普賢寺裏古墳・高崎市綿貫町堀米内1547所在古墳

高崎市普賢寺裏古墳
高崎市綿貫町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ



綿貫観音山古墳(綜覧群馬郡岩鼻村第22号古墳)から綜覧群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳へ至る道より
この周囲には小規模の円墳が何基か集まっている



綜覧群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳の裏手から、普賢寺の墓地越しに見る
それにしてもこれほどの規模がありながら、なぜ綜覧に記載されなかったのか・・・



高崎市綿貫町堀米内1547所在古墳
高崎市にある円墳で、これも綜覧記載漏れ



東より
同じく道路上から撮ったものだが、こちらから見るといかにも民家裏の古墳といった感じ
古墳名は高崎市史に拠るものだが、位置的に見て綿貫観音山古墳の陪塚とも思える
さて、実際のところはどうなのだろうか



2008年6月25日(水)21:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳

群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳
現在の高崎市綿貫町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ306尺(約92.7m)、高さ35尺(約10.6m)とある



現在、不動尊が後円部の墳頂に建っている


北より見る
前方部はだいぶ削平されてしまっているが、造り出しもあるのがわずかに分かる



説明看板
さすがに大きさは違うものの、東国最大の前方後円墳である太田市天神山古墳(綜覧新田郡九合村第69号男体山古墳)などと同形のプランであるのが注目される



墳頂部には、舟形石棺が安置されているが、蓋部は行方不明である
主体部は竪穴式と推定されており、横穴式の綿貫観音山古墳(綜覧群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳)には石棺がなく棺座であることから、直接的なつながりはないのかも知れない



2008年6月24日(火)21:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳その3

石室内部
羨道部と玄室部で石の積み方が違うのは、藤岡市諏訪古墳(上毛古墳綜覧多野郡藤岡町第3号古墳)と共通するが、石の加工がだいぶ異なる



どちらも羨道部は河原石乱積であるが、本古墳のものは少々削石っぽく見える
その辺は、勢多郡富士見村上庄司原2号古墳(綜覧勢多郡富士見村第9号古墳)のようにも見える



奥壁が巨石ではなく角閃石安山岩の切組積というのも、勢多郡富士見村上庄司原2号古墳と似ている感じ
羨門部から奥壁までの距離が長いというのを除けば、であるが



奥壁手前から石室入口を見る
ここでは見学時に管理人さんが照明を点灯してくれるので、懐中電灯要らずで見学ができる



側壁や奥壁の石のひとつひとつがさほど大きくないせいだろうか、天井石は実際以上にかなり巨大に感じられる
多野郡吉井町で産出する牛伏砂岩(うしぶせさがん)を6つも使用しており、一番大きいもので推定重量25トンとされている
吉井からここまでどうやって運んできたのだろうかとも考えさせられるが、それよりもこんな巨石を6つも運ばせた(もしくは巨石の塊をここで6つに切り分けた)権力と財力に注目したいところである



2008年6月23日(月)22:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳その2

前方部より後円部を見る
右側奥の木立は綜覧記載漏れの高崎市普賢寺裏古墳



後円部より前方部を見る


前方部より周堀北西端を見る
その先では現在発掘作業中(綿貫伊勢遺跡・古墳時代)であるが、ちょうどこの観音山古墳の時期に重なるものがなぜか出てこず、4世紀代及び7・8世紀代のものばかりだとのこと
さらにその上の土は戦国~江戸期に撹乱されており、発掘担当者の方は調査に苦労しておられた



前方部基壇部より後円部を見る
この先には、石室入口がある



石室入口
見学の際は基本的に群馬県教育委員会に連絡を入れないと、内部を見学できない



2008年6月23日(月)21:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理


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