天良七堂遺跡その2 |
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| 北側にある6号掘立柱建物跡(白線)と7号掘立柱建物跡(青線) これまた、6号のあとに7号が建っており、位置と角度がずれている 7号の床面には川原石を使った石敷きがあったのだが・・・
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| その石敷きは建物から離れた場所でも出ている どうやら、郡庁内全体に石敷きがあったとも見られる
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| 6号と7号を合わせるとかなりの奥行きになり、画像でもこんな感じ
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| 左側は民家なのだが、柵の向こう側にも柱の跡が見える この柵の延長線上には3号基壇建物跡が確認され、また、ここ6号と、4号、5号の周辺で円面硯の破片が1点ずつの計3点 他に7世紀から8世紀にかけての土器の破片が出土している
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| 西側の1号掘立柱建物跡(白線)と2号掘立柱建物跡 見学者の集団の向こうには2号基壇建物跡が確認されている これらの建物は、長元3年(西暦1030年、後一条帝の時代)に書かれた「上野国交替実録帳」の記事と一致している 「東□屋壱宇 西長屋壱宇 南長屋壱宇 □□屋壱宇 公文屋壱宇 厨壱宇」 (□は判読不能部分)
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2008年5月17日(土)22:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 太田市 | 管理
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