厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



北群馬郡吉岡町

北群馬郡吉岡町大林2号古墳・群馬郡駒寄村第51号十石塚古墳

北群馬郡吉岡町大林2号古墳
北群馬郡吉岡町南下にある古墳で、上毛古墳綜覧番号不明



北群馬郡吉岡町南下古墳群のすぐ北にある北群馬郡吉岡町教育委員会文化財課からもよく見える古墳で、二段構築の円墳と思われるが、詳しくは不明
綜覧番号も不明であるが、群馬郡明治村第32号~第53号古墳のいずれかと推測される
東側はスポーツ施設となり、いくらか墳丘が削り取られているようだ
本古墳の北には中学校があるのだが、吉岡町教育委員会で伺った話では、昭和44年の建設の際、中学校の敷地内にあった古墳が3基ほどつぶされているとのこと



群馬郡駒寄村第51号十石塚古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、綜覧では東西の大きさ36尺(約10.9m)、南北の大きさ60尺(約18.2m)、高さ20尺(約6.1m)とある



・・・が、昭和24年に群馬大学の尾崎教授が調査したところ、これは古墳ではないと判断している
規模の割に比高があるとかいった話はさておき、標柱にも「古墳」とは書かれておらず、吉岡町教育委員会でも「よく分からない」とグレー扱いしている
この周辺の地名「大久保」の由来となった大窪太郎の墓とも言われているが、実際に大窪太郎が眠っているのかどうかについても「伝承ではそうなっているが・・・」と、これまたグレーな話であった



2008年7月26日(土)21:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳・群馬郡明治村第133号古墳

群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ8尺(約2.4m)とある



現状、封土も失われ古墳には見えない状態だが、綜覧記載時にはまだいくらか封土があったようだ
吉岡町教育委員会で聞いたところ、封土があった頃、手前の道路は大八車が通れるくらいの幅しかなかったのではないかとのこと
つまりその後の拡幅工事で封土が失われたようだ
ケヤキの木でだいぶ崩されてはいるものの、石室の側壁の一部が残存、内部には薬師像が祀られている



群馬郡明治村第133号古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町下野田にあった円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ4尺(約1.2m)とある



この数字を見ると、のちにだいぶ改変されたか削平されたかしていたようで、復元後は径12m、高さ2mとなっている
関越自動車道の建設に伴い、北群馬郡吉岡町役場の敷地内に移築復元保存されたもの
かつての所在地名「下野田字滝沢」から「滝沢古墳」と名付けられている
復元古墳にしては葺石が見慣れないかたちをしているが、これはオリジナルのものではないとのこと
また、本来なら墳頂部には埴輪がいくつか並んでいたのであるが、これも復元の際に載せなかったとのこと



石室内部
平日なら、役場に申し込めば石室内の見学ができるようだ



2008年7月25日(金)22:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その2

正面斜め前に回ってみると、東国ではめったに見ない形態の古墳であることを実感する
もちろん復元されたものであるが、復元前のこちら側は葺石をはじめ墳丘がだいぶ崩壊した状態で、その始まりは平安時代初頭に起きた地震による可能性も考えられるとのこと



八角形墳というのは畿内では天皇陵とされているが、個人的にはそれはどうかと思う
関東で言えば、本古墳の他に、藤岡市の伊勢塚古墳(綜覧多野郡美土里村第54号伊勢塚古墳)、多野郡吉井町の神保一本杉古墳(綜覧多野郡多胡村第113号古墳)、そして東京都多摩市の稲荷塚古墳がそうだとされており、風水に例を見るまでもなく中国文化の影響ではないかとも思える



石室内部
石室材はほとんどが抜き取られており、また抜き取り痕も見つかっている
その結果、一部に切石を使った自然石乱石積の横穴式石室であったと推定されているが、石室材自体は玄室部の右壁に1個、左壁に2個、奥壁に2個の計5個のみが残存していた
この石室内から江戸期の寛永通寶が見つかっており、当時の闖入者が落としたものと思われる



他の古墳ではあまり見られない、古墳の土層(版築)
発掘調査で見つかった当時のままの形態でもある
この石室の形態から、本古墳が築造されたのは7世紀中葉をわずかに過ぎたあたりで、同じ吉岡町にある南下A号古墳(綜覧群馬郡明治村第54号古墳)に先行する可能性が否定できないとのことである



2008年7月24日(木)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その1

北群馬郡吉岡町三津屋古墳
北群馬郡吉岡町大久保にある八角形墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ
平成5年夏に偶然発見されたもので、そのいきさつは「吉岡町文化財調査報告書第7集三津屋古墳」に詳しく載っている



説明看板
全体図もついているので、眼下の古墳と見比べられるとっても素敵な構図



その説明看板の位置から見る
丘陵上にぬっと突き出た感じは、現代と古代とが入り交じっていて、なかなかにシュールである



角度を変えて見てみると、微妙に傾斜のある立地であることが見てとれる
調査報告書によれば「傾斜地形(10度前後の南傾斜)に盛土をすることで水平面を作りだし」ているとのことである



2008年7月24日(木)23:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

南下古墳群A号墳改訂版

先日、南下古墳群の撮り直しをしてきたので貼ってみる

しかしこの説明看板のデータを見ていると、甲府市万寿森古墳と規模がほとんど違わないはずなのに、石室内部の数値が全然違うことに気付く
まぁあちらは6世紀中頃で自然石乱石積、こちらは7世紀後半で角閃石安山岩截石切組積という違いもあるんだけどね



この墳丘を見るたびに、毎回たこ焼きが食べたくなるのはなぜだろうw


石室入口


石室内、玄室より羨道部を見る


玄室奥壁


2008年4月24日(木)21:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

南下古墳群D号墳・宮代古墳

先日貼った南下古墳群D号墳
機会があったので再訪してみたら、石室入口がはっきり露出していたので見学してきた



ということでこれが石室入口
前庭部にあたる部分の葺石がよく残っているのが分かる



石室内部
入口自体はほんの数十センチほどの高さしかないので、中に入るには相当苦労しそうなのでやめておいた



地図でみると南下古墳群A号墳の南側に位置するのが、宮代古墳
現状は近在の人たちの墓地となっていて、南側から見れば何とか古墳に見える程度



北西側から見ると、墓地の背後に庚申塔が多数建っていたりと、改変著しく古墳とは分からないレベル
ここ宮代古墳からから北に南下古墳群、その外周を取り巻くように大林古墳群、宮後古墳、穴薬師古墳と断続的に古墳が続いている



2008年4月14日(月)20:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

南下古墳群E号墳

E号墳石室入口
径約17m、高さ約2mの円墳または方墳
周辺の改変が著しいため、正確に把握できていないとのこと
7世紀後半の築造と推定されているが、A号墳よりは時期がやや下るらしい



石室内部、奥壁部分のややアップ
石室内は極めて精緻な截石切組積で、A号墳より規模は大幅に縮小されているものの、石材加工技術や切組の手法は進んでいる
写真に写っているが、A号墳同様に朱線が残っており、その数は170本にもなるらしい

なお、F号墳は石室が開口していないということで、墳丘外観の写真すら撮ってない(ぉ



2008年4月10日(木)20:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

南下古墳群C号墳・D号墳

C号墳石室入口
丘陵頂部に築かれた、径約19m、高さ約3.7mの円墳
6世紀中葉から後半頃の築造と推定されている



石室は自然石乱石積の無袖型、珍しく東向きに開口


D号墳の墳丘
径約13m、高さ約2mの円墳とされているが、墳頂部が宅地になっているなど、かなり削平・改変されている一基
見学時、当初これがD号墳であるとまったく気付かなかった
7世紀中頃の築造と推定されているが、B号墳より時期が若干遡る可能性があるらしい



何分も墳丘周辺をうろうろして、ようやく見つけた石室入口
石室内部の写真は撮っていないが、山石と川原石を混用した乱石積で南西方向に開口
羨道(入口の道部分)と玄室の境には二、三段に石を積んだ玄門が存在するらしい



2008年4月10日(木)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

南下古墳群A号墳・B号墳

吉岡町にある古墳群
そのほとんどが石室が開口しており、ひととおり見学できる貴重なもの
この看板で、何も書かれていない緑丸が石室の開口が確認されていないF号墳
そして看板の裏にあるのがE号墳



A号墳を東側から見る
同じ吉岡町の三津屋古墳に置いてあるパンフレットによると、二段構築の円墳らしい
径20~27m、高さ4m以上、埴輪の使用は確認できていない
7世紀後半の築造と推定されている



石室内は角閃石安山岩截石切組積(きりいしきりくみづみ)
奥の玄室壁面には漆喰様の塗りものの痕跡があり、また切組の石材加工の際の朱線があるとのことだが、見学時に見つけることができなかった



B号墳石室入口
墳丘外観は、木立に覆われていてやや見づらい
径約30m、高さ約6mの円墳
7世紀中頃の築造と推定されている



石室内は自然石主体の乱石積だが、玄門(写真に写っている門構えに直線状の石)に切石、玄室奥壁には一部切組
規模の割に天井が高く、この付近では珍しい形態
玄室石材の隙間に漆喰様の詰めものの痕跡があるらしい



2008年4月10日(木)20:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理


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