厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 


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群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳・群馬郡明治村第133号古墳

群馬郡駒寄村第50号穴倉薬師古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ8尺(約2.4m)とある



現状、封土も失われ古墳には見えない状態だが、綜覧記載時にはまだいくらか封土があったようだ
吉岡町教育委員会で聞いたところ、封土があった頃、手前の道路は大八車が通れるくらいの幅しかなかったのではないかとのこと
つまりその後の拡幅工事で封土が失われたようだ
ケヤキの木でだいぶ崩されてはいるものの、石室の側壁の一部が残存、内部には薬師像が祀られている



群馬郡明治村第133号古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町下野田にあった円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ12尺(約3.6m)、高さ4尺(約1.2m)とある



この数字を見ると、のちにだいぶ改変されたか削平されたかしていたようで、復元後は径12m、高さ2mとなっている
関越自動車道の建設に伴い、北群馬郡吉岡町役場の敷地内に移築復元保存されたもの
かつての所在地名「下野田字滝沢」から「滝沢古墳」と名付けられている
復元古墳にしては葺石が見慣れないかたちをしているが、これはオリジナルのものではないとのこと
また、本来なら墳頂部には埴輪がいくつか並んでいたのであるが、これも復元の際に載せなかったとのこと



石室内部
平日なら、役場に申し込めば石室内の見学ができるようだ



2008年7月25日(金)22:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その2

正面斜め前に回ってみると、東国ではめったに見ない形態の古墳であることを実感する
もちろん復元されたものであるが、復元前のこちら側は葺石をはじめ墳丘がだいぶ崩壊した状態で、その始まりは平安時代初頭に起きた地震による可能性も考えられるとのこと



八角形墳というのは畿内では天皇陵とされているが、個人的にはそれはどうかと思う
関東で言えば、本古墳の他に、藤岡市の伊勢塚古墳(綜覧多野郡美土里村第54号伊勢塚古墳)、多野郡吉井町の神保一本杉古墳(綜覧多野郡多胡村第113号古墳)、そして東京都多摩市の稲荷塚古墳がそうだとされており、風水に例を見るまでもなく中国文化の影響ではないかとも思える



石室内部
石室材はほとんどが抜き取られており、また抜き取り痕も見つかっている
その結果、一部に切石を使った自然石乱石積の横穴式石室であったと推定されているが、石室材自体は玄室部の右壁に1個、左壁に2個、奥壁に2個の計5個のみが残存していた
この石室内から江戸期の寛永通寶が見つかっており、当時の闖入者が落としたものと思われる



他の古墳ではあまり見られない、古墳の土層(版築)
発掘調査で見つかった当時のままの形態でもある
この石室の形態から、本古墳が築造されたのは7世紀中葉をわずかに過ぎたあたりで、同じ吉岡町にある南下A号古墳(綜覧群馬郡明治村第54号古墳)に先行する可能性が否定できないとのことである



2008年7月24日(木)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

北群馬郡吉岡町三津屋古墳その1

北群馬郡吉岡町三津屋古墳
北群馬郡吉岡町大久保にある八角形墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ
平成5年夏に偶然発見されたもので、そのいきさつは「吉岡町文化財調査報告書第7集三津屋古墳」に詳しく載っている



説明看板
全体図もついているので、眼下の古墳と見比べられるとっても素敵な構図



その説明看板の位置から見る
丘陵上にぬっと突き出た感じは、現代と古代とが入り交じっていて、なかなかにシュールである



角度を変えて見てみると、微妙に傾斜のある立地であることが見てとれる
調査報告書によれば「傾斜地形(10度前後の南傾斜)に盛土をすることで水平面を作りだし」ているとのことである



2008年7月24日(木)23:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 北群馬郡吉岡町 | 管理

群馬郡清里村第8号古墳・群馬郡駒寄村第38号古墳(推定)

群馬郡清里村第8号古墳
現在の前橋市上青梨子町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ78尺(約23.6m)、高さ18尺(約5.5m)とある



民家の裏にある古墳で、表側のほうはどうなっているのか未確認
綜覧によれば「石槨有」とのことであるが・・・



群馬郡駒寄村第38号古墳
北群馬郡吉岡村を経て、現在の北群馬郡吉岡町大久保にある円墳で、綜覧では規模不詳とある



石室も開口しているが、綜覧ではまったく触れられていない
吉岡町教育委員会で伺った話では、「吉岡町全体でのちに地番が変わってしまっており、綜覧を元に古墳を特定することができないものが多い」とのこと
現在「源平山古墳」と呼ばれる本古墳も、あくまで「綜覧群馬郡駒寄村第38号古墳の可能性がある」だけとのことである



その根拠も「本古墳が所在する大久保字熊野地内において、綜覧記載の古墳は綜覧群馬郡駒寄村第38号古墳のみ」ということだけである
本古墳と綜覧群馬郡清里村第8号古墳の間には「大松古墳」と呼ばれる古墳もあるが、これも町教委では綜覧番号の特定に至っていないようだ
陣馬岩屑流によってできた自然丘陵を古墳と誤認して綜覧に記載されたものもかなりあり、古墳かどうか調査する前に開発・削平されてしまったものも多いようである



2008年7月23日(水)22:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市・北群馬郡吉岡町 | 管理

群馬郡清里村第3号古墳

群馬郡清里村第3号古墳
現在の前橋市池端町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ118尺(約35.8m)、高さ19尺(約5.8m)とある



正面というよりは、鳥居の手前からだと、森に隠れてあまり気付かないが、けっこう比高のある墳丘が残存している
神明宮の社殿が載っかった南側はだいぶ改変されているが、一目で「これは!」と気付くものがある



南西より見る
木立の向こうには立派な墳丘がしっかり見てとれる



北西より見る
手前には恐らく周堀があったものと思われる



北東より見る
なお、綜覧では発掘歴は無しということであり、出土品も記録されていない



2008年7月22日(火)21:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

群馬郡清里村第1号諏訪山古墳

群馬郡清里村第1号諏訪山古墳
現在の前橋市青梨子町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ208尺(約63m)、高さ17尺(約5.2m)とある



県道を挟んで綜覧群馬郡金古町第4号高山古墳のすぐ南東にあり、行政区分こそ異なるものの、古墳自体は橋向・内林古墳群とも関係がありそうに思える
手前の道路がその県道であるが、ここは55年前まで路面電車が走っていた



さて、墳丘上には諏訪神社が鎮座しているのだが、鳥居が破損していたり、石段の段が崩れかけていたりと、だいぶ荒れてきてしまっているのが惜しいところ
手前の庚申塔は江戸期寛政年間に建てられたもの



墳丘上にはいくつかの巨石が見受けられたが、石質を見る限り、石室材ではなさそうな感じ
綜覧には「石槨アリシトイフ」と記載されているのだが・・・



2008年7月21日(月)22:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

群馬郡金古町第3号稲荷山古墳・群馬郡金古町第4号高山古墳

群馬郡金古町第3号稲荷山古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市金古町にある古墳で、墳形は不詳ながら、上毛古墳綜覧では大きさ80尺(約24.2m)、高さ15尺(約4.5m)とある



現状は古墳としての原形をとどめていないが、石室材とみられる巨石が残っており、その上には石宮が建っている


周囲は畑で、一応頑張れば巨石の前まで行けるのだが、ネギ泥棒と勘違いされたくないので遠慮
しかしこれだけネギが植わっていると、某ボーカロイドが喜びそうだなぁ・・・w



群馬郡金古町第4号高山古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市金古町にある前方後円墳で、綜覧では大きさ250尺(約75.8m)、前方部の高さ15尺(約4.5m)、後円部の高さ25尺(約7.6m)とある



綜覧では「(金平山)」とも記載されており、読みは「こんぴら」であるものと推測される
綜覧群馬郡金古町第5号入道山古墳から本古墳まで、東へ連綿と群が続いており、「橋向・内林古墳群」と呼ばれている



2008年7月20日(日)22:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡金古町第5号入道山古墳・群馬郡金古町第6号古墳

群馬郡金古町第5号入道山古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市金古町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ90尺(約27.3m)、前方部の高さ10尺(約3m)、後円部の高さ17尺(約5.2m)とある



綜覧には「石槨開口」とあるが、確認できなかった
墳丘には、葺石にしてはあまり丸くない石がいくつか散見できた



群馬郡金古町第6号古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市金古町にある前方後円墳で、綜覧では大きさ60尺(約18.2m)、前方部の高さ8尺(約2.4m)、後円部の高さ13尺(約3.9m)とある



近くにいた方に声をかけて、古墳のすぐそばまで行ってみたが、藪と木立で墳形が確認できなかった
しかし気になることがひとつ。その方に声をかけるとき、この2基を混同して「入道山というのはこれですか?」と聞いたら「そうだよ」と言われた
あとでいろいろ調べると、これは綜覧群馬郡金古町第6号古墳に比定されているようだが・・・



こうして両古墳を見る限り、奥のほうが大きく見える
綜覧記載の数字を見ると、綜覧群馬郡金古町第5号入道山古墳の方が大きい
もしかしたら、綜覧と現在の扱いが逆になってしまったのではないかとも思うのだが・・・



2008年7月19日(土)22:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡金古町第9号愛宕山古墳

群馬郡金古町第9号愛宕山古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市金古町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ60尺(約18.2m)、高さ25尺(約7.6m)とある



しかし、説明看板を見る限り、綜覧記載の数字とはだいぶ違うような・・・


石室入口
だいぶ改変されてしまっている
秋になってもヤブ蚊がうろついており、閉口した



石室内部
こちらはよく残っているが、カマドウマの巣窟となっている



北側を東西に走る県道より見る
木立の中に墳丘がちらちらと見え隠れしている



2008年7月18日(金)21:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡金古町第72号オ春名古墳

群馬郡金古町第72号オ春名古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市足門町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ48尺(約15.5m)、高さ13尺(約3.9m)とある




この数字は二段構築の二段目の数字のようで、まいぶん群馬のHPでは「地山を削り出した直径25メートルの低い基壇の上に、直径15メートルの円丘を乗せている」とある
周囲は宅地化が進みつつあり、やがて見えなくなりそうな気もしてくる
綜覧では「石槨(丁字型)有」と記載されているが、実際には「『逆トの字形』の変形横穴式石室」(まいぶん群馬HP)とのこと
残念ながら石室は埋め戻され、現在見ることはできない



このオ春名古墳(別名オハンナ古墳、お榛名古墳とも)の北側にあるのがこの石室材
地番から見る限り、綜覧群馬郡金古町第73号~第75号古墳のいずれかのものと思われる



綜覧記載の地番と手持ちの地図を照合する限り、「群馬町の文化財」で春名原古墳群に含められているのは、綜覧群馬郡金古町第73号~第80号古墳の8基のようだ


2008年7月17日(木)21:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理


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