佐波郡玉村町第33号古墳・佐波郡玉村町No.229遺跡 |
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| 佐波郡玉村町第33号 佐波郡玉村町上之手にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ102尺(約30.9m)とある
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| 墳頂部には若王子神社の社殿があり、さらに庚申塔や石碑なども建っている 訪問時、すぐ南側にある畑で農作業をしていた方に墳頂部への道を聞いて初めてたどり着けた ついでに聞いた話では、以前はその南側にも盛り土があったとのことで、それも墳丘の一部だったのかも知れない
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| 雪の日 墳丘のかたちがよく分かる
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| 佐波郡玉村町No.229遺跡 佐波郡玉村町宇貫にある古墳で、綜覧記載漏れ
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| 地元ではショウデンヤマと呼ばれていて、元は「聖天山」と言ったようだ 近所のお年寄りに伺った話では、妻沼聖天を勧請したためにこの名が付いたものだという 現在、墳丘上に多数の庚申塔が建ち、画像の手前側に巨石があるほかは古墳としての面影はあまりない ここから北東へ約300m行くと、綜覧佐波郡玉村町第34号古墳がある
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2008年6月28日(土)20:55 | トラックバック(0) | 佐波郡玉村町 | 管理
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佐波郡玉村町第34号古墳・佐波郡玉村町No.238遺跡 |
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| 佐波郡玉村町第34号古墳 佐波郡玉村町上之手にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ103尺(約31.2m)、高さ15尺(約4.5m)とある
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| 畑と新興住宅が混在する場所に、ぽつんと佇んでいる 訪問時、柿がとても美味しそうに成っていた 「上之手薬師前古墳」とも呼ばれており、佐波郡玉村町の遺跡台帳ではNo.239遺跡として登録されている
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| 反対側は墓地となっている 葺石が大量に露出しているのが見える
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| 佐波郡玉村町No.238遺跡 佐波郡玉村町上之手にある古墳で綜覧記載漏れ
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| こちらも墓地となっている
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2008年6月27日(金)21:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 佐波郡玉村町 | 管理
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群馬郡岩鼻村第19号古墳・高崎市綿貫町市ヶ原1117所在古墳 |
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| 群馬郡岩鼻村第19号古墳 現在の高崎市綿貫町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ66尺(約19.9m)、高さ8尺(約2.4m)とある
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| 昭和10年当時は国有地で、地目が小社地となっているが、現在では個人所有の畑となっているようだ 平成10年に刊行された綿貫観音山の発掘調査報告書内には「普賢寺東古墳」という円墳が「径約30m川原石積み壁面赤色塗彩石室」と紹介されているのだが、これは本古墳のことなのか、それとも道路の向かいの墓地(高崎市綿貫町堀米内1552所在古墳)のことなのか、はっきりしない
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| 高崎市綿貫町市ヶ原1117所在古墳 高崎市綿貫町にある円墳で、綜覧記載漏れ
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| 綜覧記載漏れなのは、当時このあたりが陸軍岩鼻火薬製造所の敷地内にあり、防諜上の観点から調査ができなかったためである 本古墳は群馬県立歴史博物館の入口前の芝生内にあるが、先述の綿貫観音山古墳発掘調査報告書によれば、「(綿貫古墳群の円墳群は)『群馬の森』の正面ゲート付近から芝生広場付近で、約30基前後が存在したと推定される」とある
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| この古墳のものと推定される調査図が県立歴史博物館に収蔵されており、それによれば角閃石安山岩加工材使用の横穴式石室を有しており、また後期古墳に通有の直刀・鉄鏃が出土しているらしい
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2008年6月26日(木)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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高崎市普賢寺裏古墳・高崎市綿貫町堀米内1547所在古墳 |
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| 高崎市普賢寺裏古墳 高崎市綿貫町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧記載漏れ
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| 綿貫観音山古墳(綜覧群馬郡岩鼻村第22号古墳)から綜覧群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳へ至る道より この周囲には小規模の円墳が何基か集まっている
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| 綜覧群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳の裏手から、普賢寺の墓地越しに見る それにしてもこれほどの規模がありながら、なぜ綜覧に記載されなかったのか・・・
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| 高崎市綿貫町堀米内1547所在古墳 高崎市にある円墳で、これも綜覧記載漏れ
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| 東より 同じく道路上から撮ったものだが、こちらから見るといかにも民家裏の古墳といった感じ 古墳名は高崎市史に拠るものだが、位置的に見て綿貫観音山古墳の陪塚とも思える さて、実際のところはどうなのだろうか
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2008年6月25日(水)21:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳 |
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| 群馬郡岩鼻村第15号不動山古墳 現在の高崎市綿貫町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ306尺(約92.7m)、高さ35尺(約10.6m)とある
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| 現在、不動尊が後円部の墳頂に建っている
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| 北より見る 前方部はだいぶ削平されてしまっているが、造り出しもあるのがわずかに分かる
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| 説明看板 さすがに大きさは違うものの、東国最大の前方後円墳である太田市天神山古墳(綜覧新田郡九合村第69号男体山古墳)などと同形のプランであるのが注目される
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| 墳頂部には、舟形石棺が安置されているが、蓋部は行方不明である 主体部は竪穴式と推定されており、横穴式の綿貫観音山古墳(綜覧群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳)には石棺がなく棺座であることから、直接的なつながりはないのかも知れない
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2008年6月24日(火)21:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳その3 |
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| 石室内部 羨道部と玄室部で石の積み方が違うのは、藤岡市諏訪古墳(上毛古墳綜覧多野郡藤岡町第3号古墳)と共通するが、石の加工がだいぶ異なる
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| どちらも羨道部は河原石乱積であるが、本古墳のものは少々削石っぽく見える その辺は、勢多郡富士見村上庄司原2号古墳(綜覧勢多郡富士見村第9号古墳)のようにも見える
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| 奥壁が巨石ではなく角閃石安山岩の切組積というのも、勢多郡富士見村上庄司原2号古墳と似ている感じ 羨門部から奥壁までの距離が長いというのを除けば、であるが
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| 奥壁手前から石室入口を見る ここでは見学時に管理人さんが照明を点灯してくれるので、懐中電灯要らずで見学ができる
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| 側壁や奥壁の石のひとつひとつがさほど大きくないせいだろうか、天井石は実際以上にかなり巨大に感じられる 多野郡吉井町で産出する牛伏砂岩(うしぶせさがん)を6つも使用しており、一番大きいもので推定重量25トンとされている 吉井からここまでどうやって運んできたのだろうかとも考えさせられるが、それよりもこんな巨石を6つも運ばせた(もしくは巨石の塊をここで6つに切り分けた)権力と財力に注目したいところである
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2008年6月23日(月)22:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳その2 |
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| 前方部より後円部を見る 右側奥の木立は綜覧記載漏れの高崎市普賢寺裏古墳
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| 後円部より前方部を見る
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| 前方部より周堀北西端を見る その先では現在発掘作業中(綿貫伊勢遺跡・古墳時代)であるが、ちょうどこの観音山古墳の時期に重なるものがなぜか出てこず、4世紀代及び7・8世紀代のものばかりだとのこと さらにその上の土は戦国~江戸期に撹乱されており、発掘担当者の方は調査に苦労しておられた
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| 前方部基壇部より後円部を見る この先には、石室入口がある
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| 石室入口 見学の際は基本的に群馬県教育委員会に連絡を入れないと、内部を見学できない
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2008年6月23日(月)21:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳その1 |
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| 群馬郡岩鼻村第22号観音山古墳 現在の高崎市綿貫町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ318尺(約96.4m)、高さ33尺(約9.9m)とある
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| 現在、「綿貫観音山古墳」と呼ばれ、出土品が百済・武寧王陵や北斉・庫狄回洛墓と共通性を持つことで有名な古墳でもある
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| ついでに言えば、墳丘が大きいのでファインダーに収まりきらず苦労する
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| 説明看板
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| もちろん埴輪もお忘れなく かつては復元埴輪も並べられていたが、現在は撤去されている 発掘を担当した明治大学名誉教授の大塚初重氏が講演で語っていたが、近在の小学生が、テストの結果が悪いと叱られて腹いせに破壊したとのこと
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2008年6月23日(月)21:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理
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勢多郡北橘村第70号朝日塚古墳・勢多郡北橘村第71号将軍塚古墳 |
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| 渋川市北橘町箱田に鎮座する木曽三柱神社 ここの境内に、2基の古墳が存在している このあたりは木曽義仲の家臣が、義仲討伐後に落ち延びてきたとされる場所で、神社名も古墳名も義仲にちなむものばかりである 所在地名の箱田も、それにまつわるという説がある
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| 勢多郡北橘村第70号朝日塚古墳 現在の渋川市北橘町箱田にある円墳で、上毛古墳綜覧では径54尺(約16.4m)、高さ9尺(約2.7m)とある
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| 昭和58(1983)年、多目的集会施設の建設に伴い発掘調査、その後大部分が削平された 発掘調査報告書によれば「削平範囲は前庭部と羨道の一部とすることとなり、石室の大半と墳丘の一部は危険防止の措置を取ったうえ残されることとなった」とあり、また実測図を参考に見ていくと、建物裏のこの部分は、墳丘の残存部位である可能性が高い また、建物の土台部分の一部も同様であると思われる
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| 勢多郡北橘村第71号将軍塚古墳 現在の渋川市北橘町箱田にある円墳で、綜覧では径69尺(約20.9m)、高さ13尺(約3.9m)とある
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| 現在、木曽三柱神社の社殿裏にあり本殿が載っかっている ところで、朝日塚古墳発掘調査報告書の巻末に、こんな文があった。歴史や文化財保護の観点からみても、大いに同意するところである 「現在本県に残っている古墳は2000基とも3000基ともいわれるが、これ以上古墳をなくすことはできない」
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2008年6月22日(日)22:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理
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勢多郡北橘村第103号八郎塚古墳石棺 |
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| 勢多郡北橘村第103号八郎塚古墳石棺 現在の渋川市北橘町真壁にあった円墳で、上毛古墳綜覧では規模不明とある
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| 八郎塚古墳自体は、関東水電(現東京電力)佐久発電所(昭和3年完成)の送水路建設工事で削平されたが、その際に石棺が出土、現地から約500m南東の赤城神社境内に石棺のみ移設された 神社の北西端に置かれているが、屋敷神のように祀っているのかも知れない 手前にはいろいろな神様の石碑が置かれていて、さらにその前には数段の小さな階段が据えられていた
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| 出土時の状況が不明なので、その時の状態で並べられているのかどうかは判断できない
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| いずれにせよ、現在県内で見られる石棺としてはあまり見かけないタイプではある 単に他の古墳が消滅してしまったためなのかも知れないが
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2008年6月21日(土)22:23 | トラックバック(0) | コメント(0) | 渋川市 | 管理
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