厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



前橋市

勢多郡上川淵村第3号正平稲荷古墳

勢多郡上川淵村第3号正平稲荷古墳
現在の前橋市上佐鳥町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ42尺(約12.7m)、高さ10尺(約3m)とある



すぐ北側の春日神社にも古墳があり、何らかの関わりがあったかも知れない
本古墳の周囲は畑で、東側には端気川という小さな川が流れている
墳丘にはキツネをかたどった焼き物が数多く散乱し、一瞬「埴輪か!?」と身構えてしまった



北側から見る
社殿背後には大きな木が生えていて、とてもよい目印になる
こちらから見ると、畑の中にぽつんとあってたどり着くのが大変そうに見えるが、コンクリート舗装の小道があり、車でも何とかたどり着ける



2008年5月15日(木)22:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

荒砥村第150号

勢多郡荒砥村第150号
今の前橋市西大室町の中央やや南西寄りに位置する円墳で、今は「荒砥富士山古墳」と呼ばれている
上毛古墳綜覧では大きさ66尺(約20m)とあるが、この数字はずいぶん少ないような・・・



南東側から見る
高さはさほどなく、説明看板によれば3mだということである



南西側より見る
現在、この周辺に残る古墳はあまりないが、かつてはかなりの数が群集していた模様
ここの西側に、不自然な曲がり方をした道があり、調べてみたらかつて何基かの古墳が張り出していたらしい
(現在は宅地化、荒砥村第14号~第17号と思われる)



墳丘南側には石室の天井石が顔を覗かせている
この下に石室が埋もれた状態で完存しているそうだ
綜覧にも「石槨現存」とあり、また大正13年の発掘で直刀二本が出土している



最後に、その案内看板
古墳から少し離れた場所にある



2008年5月14日(水)21:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

荒砥村第301号今井神社古墳

勢多郡荒砥村第301号今井神社古墳
今の前橋市今井町にでっかく鎮座する前方後円墳
上毛古墳綜覧では大きさ300尺(約91m)、高さ50尺(約15m)とあり、これだけの大きさのものは荒砥村南部ではさほどなく、隣接の木瀬村に至っては皆無である



例によって詳しくは(ry


看板に書かれている「組合せ式石棺」がこれ
どうやら凝灰岩でできているようだが、それにしてはあまり風化せずによく残っている
朱が塗られているそうだが、褪色したのか確認できなかった



後円部の基壇部から前方部左側を見る
木立が鬱蒼としてはいるが、墳丘自体はしっかりと視認できる
綜覧には「石槨湟現存、高貴ノ方ノ墳墓ト傳フ」とあり、直刀も1本出土しているらしい
(石槨湟阯現存、の脱字ではないかとも思うが・・・)



前方部より鞍部を見る
奥に見えるのは今井神社の社殿



2008年5月13日(火)22:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

木瀬村第14号・荒砥村第315号(推定)

前橋市の国道50号、今井町の今井神社古墳の南東にあるのがこの勢多郡木瀬村第14号
上毛古墳綜覧記載当時は勢多郡木瀬村上増田字宮原という地名だったが、今は前橋市上増田町となっている



綜覧によると、当時の規模は大きさ60尺(約18m)、高さ11尺(約3.3m)
今でもかなりの大きさで残っており、現存する今井神社古墳群のものでは最大であろう(といっても他にほとんど残っていないが)



東側から見る
畑の中にどーんと佇んでおり、一見してすぐ「これは古墳か!?」とピンときて、すぐさま墳丘周辺にいた方に所有者名をお聞きして古墳名が判明できた
右奥にももう1基、古墳があるのだが、こちらは古墳名が確定できていない



勢多郡荒砥村第315号と推定される古墳
この画像でおいらが立っているこの道が、ちょうど村境にあたり、ここから北が荒砥村、南が木瀬村となるため、2基寄り添っていても村名が違う
古墳名を確定できていない理由だが、所在地の地番から判断すれば第315号となる



綜覧では規模不詳、今井神社の所有と記載されている
大正4年頃に発掘されているらしいが、出土品の記載なし
墳頂には木造の祠のようなものがあり、神社所有を伺わせるものがあるのだが、聞き込みでは個人所有とのこと
昭和10年以降に、所有者が変わったなら納得いくのだが、規模不明の円墳というのが理解できない
これだけかたちが分かっていれば、計測可能だと思うのだが・・・
地番が違うのはさておき、規模と所有者の名前で判断すれば、第306号、第309号、第313号の可能性もあるが
ともあれ「元は今井神社の所有」ということが分かれば確定可能なんだよなぁ



2008年5月11日(日)21:57 | トラックバック(0) | コメント(4) | 前橋市 | 管理

遠見山古墳

前橋市総社古墳群遠見山古墳
古墳名の由来は看板のとおりなんだけど
ということは、総社藩秋元家の家老だった先祖も、この古墳の上に立って遠くを見てみたことがあるはずだなぁ・・・
「群馬県の歴史散歩」(山川出版社刊)の記事では、全長70m、5世紀代の築造で竪穴式の主体部が予想されるとある



さて、後円部北面から墳丘に登ってみようとすると、途中で途切れまるで獣道のような感じになるので諦めるしかない
この篠藪自体はかなり昔からあるようで、昭和29年刊の「総社町史」でも「墳丘は畑、南面にしの茂る」と書かれている



墳丘全体を北北西部より遠望する
このあたりはかつての総社城の城郭内であり、おいらの立ち位置がほぼ中心部にあたる



前方部を真西より見る
周囲はすっかり耕作地となり、周堀の跡も分からない状態



そこから少し南側に行った地点から見る
こうしてみるとそこそこ大きめには見えるが・・・
左後方、残雪の武尊連峰。右後方は赤城山



2008年4月29日(火)22:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

紅葉山古墳

前橋市総社古墳群紅葉山古墳

・・・とは書いたものの、この古墳名はおいらが呼んでるだけで、仮称の域を出ない
宝塔山古墳のすぐ北にある御霊神社がそれだ



前々から「この神社の土台、怪しいなぁ・・・」と思っていたのだけれど
そう言えば何やら看板があったなぁと思って改めて見に行ったら、しっかり古墳だと書いてあった
しかし、この仮称紅葉山古墳がどんな古墳だったのか、知る手がかりはない
上毛古墳綜覧にも、群馬県遺跡台帳にも載っていないのだ



改めて神社土台となった古墳を見てみる
確かに比高はかなりあり、それっぽい雰囲気はあると思う
上に建っているのは奉安殿であり、社殿ではないらしい
移築される前、つまり戦前はこの中にご真影が納められていたというわけだ



南西側から見てみる
古墳であったという手がかりはまったく見当たらない
左手に延びるブロック塀は、小学校の塀



2008年4月28日(月)22:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

総社二子山古墳その2

さて、この古墳の特徴は、前方部と後円部それぞれに横穴式石室があるということ
この2つの石室は同時に作られたものではなく、わずかに時代差がある



墳丘上部より、前方部石室入口周辺を見下ろす
草に埋もれて見づらいが、わずかに前庭部が見受けられる



前方部石室入口
4年ちょっと前に、崩落の危険があるということで立ち入り禁止となってしまい、現在は中を見ることが出来なくなったのは残念な話である
こちらの石室は6世紀末のもので、自然石乱石積
玄室に胴張りが見られるらしい



墳丘上部より後円部石室部分を見下ろす
金網のかかっている部分は石室入口ではなく、天井石の崩落した箇所である



後円部石室入口
こちらはだいぶ以前に天井石が崩落しており、その頃から見学不能となったため、この通り厳重に柵が巡ってしまっている
石室は6世紀後半のもの、角閃石安山岩の削石積(一部資料に乱石小口積との記載あり)で一部に切組も見られるとのこと
こちら側は胴張りのない玄室らしい



2008年4月25日(金)22:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

総社二子山古墳その1

上越線群馬総社駅から南に2つ目の踏切、その名も二子山踏切
この踏切の東側にある、木々の生い茂った場所が総社二子山古墳である



墳丘北西部、前方部の端から墳丘を見る
周囲は宅地化が進み、墳丘全体をゆったりと見られる場所はなくなってしまった
石柱には「史跡」とあるが、市指定史跡でも県指定史跡でもなく国指定史跡なのである



ま、詳しいことはこの石碑で熟知いただいて、と
写真に撮ると、写り込みが激しくて見づらいのはしかたないか
おいらと愛用のバイクもしっかり写り込んでいるしね



さて、前方部から墳丘上部に上がるとすぐに目に入るのがこれ
豊城入彦命は崇神天皇の第一皇子で、ヤマトタケル伝説のモデルともされる人物なのだが、後に上毛野氏の祖先ともなり、その陵墓がこの古墳であるという伝説がある
・・・とはいえ、最近の研究では、年代的にその陵墓はここではない可能性が高いとのことだ



前方部より後円部を見る
新緑が目に鮮やかで心地いい場所だ



2008年4月25日(金)22:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理

宝塔山古墳

前橋市宝塔山古墳
一辺が50m以上ある大型方墳で、南側に幅約20mの周堀の跡が確認されている
名前の由来は、復原図の文面を参照・・・とはいえ、実はこの秋元家、おいらの先祖の主人でもあったりする
前橋市の古墳としては初めて訪れたことになるわけだけど、訪れた当時このことは知らなかったはず・・・



古墳の傍らにある推定復原図
この図では三段に構築されているが、手元の資料では二段構築とある・・・どっちが正しいんだ?w



石室入口
この上に総社藩主秋元家はじめ何やら古そうな墓がいくつも建っている



石室内部、羨道から玄室や石棺を見る
群馬県内の後期古墳の例に違わず、ここも角閃石安山岩の截石切組積で、なかなかに壮観な作りをしている
壁面には漆喰や壁画があったと推定されている



脚部に格座間(こうざま)をくり込んだ、精緻な作りの家型石棺
中身についてはおいらまったく関知しないのでそのつもりで・・・どうせ空だろうけどねw



2008年4月18日(金)23:20 | トラックバック(0) | コメント(2) | 前橋市 | 管理

蛇穴山古墳

初めて見学したのが、小学校の社会科見学だった
この周辺、総社古墳群だの天狗岩用水だの総社城跡だの、前橋の歴史資料が多いのでそれらとまとめて見学したのを覚えている
これは先日の訪問の時に、北側から撮ったもの



昨年春から古墳訪問をするようになったが、前橋市内のものとしては2番目(トータルでは4番目)に訪問している
この画像はそのときのもの
ちなみに前橋市内の1番目は、お隣の宝塔山古墳



別に見に行くたびにいちいち撮っているわけではないが、何かと見に行く証拠写真
知り合いにこのバイクを借りたとき、何とはなしに行ってしまうあたり、この場所周辺に縁があるんだろうなぁ
その縁がどんな縁かは、宝塔山古墳の話をするときに語ろうと思う



2008年4月8日(火)19:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 前橋市 | 管理


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