厩橋どんぶり塚古墳
 
上毛古墳綜覧(昭和10年群馬県下一斉調査・昭和13年発行)をベースに巡る古墳ブログ    群馬県外の古墳にも浮気しつつ、ゆるゆると更新停滞中
 



高崎市

滝川村第1号御伊勢山古墳・滝川村第2号

群馬郡滝川村第1号御伊勢山古墳
現在の高崎市下滝町にある古墳だが、資料によって前方後円墳とも円墳ともあり、はっきりしない
東を縦断する県道のバイパスからもよく見えるほど墳丘がしっかり残っており、上毛古墳綜覧では大きさ130尺(約39m)、高さ前方部40尺(約12.1m)、後円部45尺(約13.6m)の前方後円墳と記載されている



群馬郡滝川村第2号
同じく高崎市下滝町にある前方後円墳で、現在は前山古墳とも呼ばれている
綜覧では大きさ130尺(約39m)、高さ前方部25尺(約7.5m)、後円部30尺(約9.1m)で、鐙と鈴が出土しているそうだ



後円部を見る
前方部も後円部も、かつての原形をとどめていないくらいに改変されてしまっている
墳丘脇を大きくカーブしていく道をこのまま南下するといくつかの綜覧記載漏れ古墳をかすめて、御伊勢山古墳などにたどり着き、さらにその先、井野川の対岸には綿貫の観音山古墳がそびえている
ちなみに、逆に北上すると慈眼寺の脇を通り、下滝町淵ノ上13所在古墳を経て元島名の将軍塚古墳が見えてくる



2008年5月31日(土)22:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

慈眼寺A・B・C号他

高崎市下滝町慈眼寺
この寺の本堂裏に3基の円墳がありそれぞれ慈眼寺A・B・C号と名前が付けられている
これは慈眼寺A号で、規模から見て上毛古墳綜覧群馬郡滝川村第3号の可能性がある
墳頂部がへこんでいるが、これは綜覧記載の発掘歴有りとも一致している
ちなみに滝川村第3号からは直刀と鈴が出土しており、慈眼寺で所蔵しているようだ



慈眼寺B号、普段は大師堂古墳と呼ばれている
墳丘上に建つ大師堂が古墳名の由来となっている



慈眼寺C号


この慈眼寺は、しだれ桜で有名なのだが、もう一つ、興味深いものがある
それがこれ、隠れキリシタンの墓だ
群馬県立歴史博物館でも写真パネルが展示されている
慈眼寺は前橋藩主酒井家に厚く保護された寺でもあり、こうした墓が現存しているのは驚きさえ覚える



慈眼寺の北にある県道のはす向かいにある、高崎市歴史民俗資料館
元は高崎市に吸収合併される前の村役場(滝川村と京ヶ島村が合併してできた群南村)の庁舎で、元島名将軍塚古墳出土の埴輪の一部に直接さわることのできる場所でもある
個人的にはポストと消防ポンプがおすすめ



2008年5月30日(金)21:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡上郊村第5号二子塚古墳

群馬郡上郊村第5号二子塚古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市井出町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ270尺(約81.8m)、高さ25尺(約7.6m)とある



現在は井出二子山古墳と呼ばれるが、綜覧では二子塚古墳。そして綜覧記載の所在地名は「群馬郡上郊村井出字二子山」
他の古墳が今も「塚」と呼ばれているのにここだけ「山」なのは、この地名によるのだろうかとも思う



綜覧群馬郡上郊村第1号八幡塚古墳と違い、こちらは葺石ではなく芝生を使った墳丘復元がなされている
各地の円墳などではこうした復元が多いので、馴染みやすいかたちでもある



現在も周堀部分が復元工事中のようだが、花畑にするのは果たして復元の範疇に入るのだろうか?
墳丘の北側と西側にはかつて多くの小円墳と小帆立貝形墳があり、強い結びつきのある人たちの墳墓と見られている



東側にあるレプリカ埴輪で、面白い飾り付けがなされていたのを見かけた


2008年5月29日(木)21:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡上郊村第2号八幡塚古墳その2

青々とした麦の海の彼方に佇む八幡塚古墳


雪の日の八幡塚古墳
雪の積もりかたで、風向きもよく分かる



前方部墳丘上より後円部を見る
こういったかたちの復元古墳はあまりないので、新鮮な感覚だ



前方部基壇部より見る


後円部基壇部より前方部を見る
やはりとても不思議な感じがある



2008年5月28日(水)22:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡上郊村第2号八幡塚古墳その1

群馬郡上郊村第2号八幡塚古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市保渡田町にある前方後円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ258尺(約78.2m)、前方部の高さ12尺(約3.6m)、後円部の高さ14尺(約4.2m)とある



近年、墳丘が復元・整備されたが、訪れるたびにいつも学生時代に歴史の教科書で見た兵庫の五色塚古墳を思い出す
こうした葺石のびっしり並んだ復元前方後円墳は、五色塚古墳だけだと思いこんでいたからというのもあるが



後円部階段上より、中島越しに見る井出二子山古墳(綜覧群馬郡上郊村第5号二子塚古墳)
こちらも最近どんどん復元作業が進んできた
その手前にある地元の農産物直売所はたまに覗いてみたりする



一方こちらは後円部頂部より中島越しに見る綜覧群馬郡上郊村第1号薬師塚古墳
といっても、手前に西光寺の本堂が建っているのであまりよく見えないが



後円部の直下は空洞になっていて、舟形石棺が置かれている
ここには写っていないが、蓋石もすぐ近くに置かれているが、どちらかというと「転がっている」といった感じ
かなり古くに盗掘されたときに、こうなったらしい



2008年5月28日(水)21:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡上郊村第3号天子塚古墳

群馬郡上郊村第3号天子塚古墳
群馬郡群馬町を経て、現在の高崎市保渡田町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ102尺(約30.9m)、高さ16尺(約4.8m)とある



北西より見る
古墳名はずいぶんと畏れ多い名前のようにも見えるが、謂われはしっかりとしたもの
かつてこの辺りには保渡田城という城があり、元は箕輪城主長野氏の出城。その後、長野氏を滅ぼした甲斐の武田家の家臣の子が居城したが、武田家滅亡後は廃城



その保渡田城の本丸がこの周辺で、本丸にあった物見櫓の土台となったのがこの天子塚。元は天守山と言ったようだ。天子塚の名はこれが転訛したもの
周囲の道路は、保渡田城の堀を埋め立ててできたものが多い



墳丘上には、綜覧に「庚申塔有リ」と記載されているように、びっしりと庚申塔が並んでおり、百庚申なのかもしれない
「百庚申は東京近辺ではきわめてまれで、たくさん見かけるのは群馬県の前橋や高崎の周辺である。あの辺では一村に数箇所は必ずあるというほど普及している。多くは小山の頂上に親庚申をおき、その参道の両側に並べるといったかたちで、よく古墳が利用されている」
(清水長輝著「庚申塔の研究」より)



北より墳丘全体を見る
所在地は保渡田だが、いわゆる保渡田古墳群には属しない
最後に築造された綜覧群馬郡上郊村第1号薬師塚古墳より時代はだいぶ下るようで、また関連性もあまりないとも見られているようだ



2008年5月27日(火)22:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

群馬郡岩鼻村第23号稲荷山古墳

群馬郡岩鼻村第23号稲荷山古墳
現在の高崎市綿貫町にある円墳で、上毛古墳綜覧では大きさ72尺(約21.8m)、高さ8尺(約2.4m)とある



綜覧では、発掘については「有」としか書かれておらず、出土品の記載もないが、高崎市史によれば横穴式石室があり、須恵器も出土したらしい
だとすれば、この社殿の真下に石室の遺構が残っているのかも知れない



反対側、つまり北側から見る
この大きくうねった道がいい感じである
もしかしたらこの道の部分に、周堀があったのかも知れない
有名な綿貫観音山古墳から北西に1.1kmしか離れておらず、何らかの関連性も推測できそうな気もするが・・・



稲穂の海の向こうに浮かんだ墳丘


2008年5月24日(土)22:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理

高崎市庚申古墳群

高崎市庚申古墳群
高崎市金古町にある古墳群で、上毛古墳綜覧では群馬郡金古町第26号~第26号の31基が記録されている
これは庚申b号。石室が開口しているとのことだが、草に埋もれたのか、確認できなかった
昭和38年に群大で調査され、葺石はあるものの埴輪は有さないことが判明している



庚申e号
墳丘周辺に石が積まれているということは、石室部分は崩壊したあとということになる



庚申g号
平成5年に群馬郡群馬町教育委員会が確認調査を実施、墳丘径は16mを超えるとのこと
南東方向に石室開口部と思われる石組みが確認されている



古墳名不明ながらも、近くの群馬県稚蚕人工飼料センター建設前に行われた庚申遺跡の調査報告書できちんと古墳として分布図にプロットされている古墳
県立日本絹の里の東にある



庚申e号の北約80mに転がる石
すぐ近所のお年寄りに聞き込みをしたら、そこらにいっぱいあった古墳をつぶしたときに出た石だとのこと
形状から見て石室側壁の石だろうか



2008年5月19日(月)22:38 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理

高崎市寺屋敷古墳群

高崎市寺屋敷古墳群
高崎市足門町にある古墳群で、上毛古墳綜覧では群馬郡金古町第92号、第94号~第110号の18基が記録されているが、現存するものは3基のみとなっている



説明看板によれば、これが寺屋敷d号ということだが、見学は容易ではあるものの、周囲を木に囲まれていて全体が見渡しづらい
当然、写真に撮るとこんな感じになってしまう



脇に柵の切れ目があって、そこから入れば墳丘に登ることも出来る
というか、そうしないと説明看板が読めないのだが、最近の高崎市はこうした説明看板をしっかりと作っているのが評価できる
それに引き換え、我が前橋市は・・・



寺屋敷f号
大きめの墳丘が目を惹くが、個人的には隣の民家の屋根が立派なのが気になるw



寺屋敷g号
これだけはちょっと古墳と言われないと気付かないかもしれないレベル
墳丘が見づらいというのもあるが

ところでこの寺屋敷古墳群、現存する3基とも現在の地番が、綜覧記載当時のものではなくなっており特定は出来ない状態なのが残念である



2008年5月18日(日)22:03 | トラックバック(0) | コメント(2) | 高崎市 | 管理

金古町第69号と如来古墳群補遺

群馬郡金古町第69号
1ヶ月ほど前の記事で「どれに該当するのか、現時点では不明」と書いた古墳である
近くで農作業中のお年寄りに話を聞いてみたところ、「あれは○○さんちの山」ということで、古墳名が判明した



上毛古墳綜覧では円墳で発掘歴あり。規模は大きさ15尺(約4.5m)、高さ10尺(約3m)
石室がどうのとは書いてないが、墳頂部に生えた木の根が、内部を侵食しているであろうことは想像に難くない・・・



件のお年寄りの話では、やはり昔はそこら中に木の生えた小山(つまり古墳だ)がいっぱいあったが、みんな削られたとのこと
ついでに第68号御嶽山の読みを聞いたら「みたけさん」だった。前方後円墳であったかどうかについて聞いたら、社殿の裏に、以前はこんもりとした小山があったという
やはりいくらか削平・改変されてしまっていたようだ



ついでに第70号と思われる古墳についても聞いたら、ここで情報の食い違いが出てきた
「あれは△△さんの土地?」と聞いたら「いや、□□さんの土地だよ」とのこと
確かにその名前は綜覧の別の古墳にあったが、下の名前に聞き覚えがないらしい
そうなるとこの第70号は、所有者が代わったのだろうかと思ったが、「それはない」と否定された
地番で言えば第70号なのだが、所有者基準だと第63号・第64号、第66号になってしまう・・・



2008年5月12日(月)21:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 高崎市 | 管理


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